奥州市立後藤新平記念館を訪ねて【渡邊崇之@台湾】

お盆休みの帰省中にどうしても訪れたかったところがある。
当人の生まれ故郷でもある岩手県奥州市水沢にある後藤新平記念館だ。

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前回コラムで台北の旧児玉総督及後藤民政長官記念博物館について触れたが、後藤という人物を生まれ故郷の人々はどのように捉えているのか、それをより深く知りたかったのだ。
その後藤新平記念館では「後藤新平と都市計画」という企画展を行っており、東京・台湾・満州の3部作となっていて、丁度この時期は台湾編の開催中であった。
都市計画の観点からの企画展ということもあり、後藤が台湾の都市計画に奔走した様子が良くわかる。

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後藤は民政局長として赴任する以前に桂太郎と台湾視察を行っており、衛生状態の改善が最重要課題であると既に認識していた。
そこで赴任に当たり、お雇い外国人で帝国大学衛生工学の教授であったウィリアム・T・バルトンの台湾派遣を強く推薦し、抜擢した。バルトンの活躍はやがて弟子である地下ダムで有名な濱野弥四郎らへと引き継がれていく。

清朝時代の基隆から新竹までの小型鉄道を高雄までの頑丈な鉄路に塗り替えた縦貫鉄道の敷設は既に広く知れ渡っているところなので詳述は避けるが、湾港の整備についてあまり知られていないので補記しておこう。

清朝時代は築港事業が事実上放置され、唯一といって良い基隆港も大型船舶が停泊できる状況ではなかった。
また事業公債の減額が築港事業に最も影響し、資金的にも難航を極めていた。
そこで、後藤は自ら基隆築港局長に就任して直接指揮を執った。まず、湾港の土砂を取り去って(浚渫)、有効面積を増やし、その土砂を使って埋立地を作り、3千トン級の船舶を同時に2隻接岸できるようにした。
しかし、最大課題は北方の強風を防ぐ防波堤の敷設で、これには長い年月と費用を要する。
そこで、後藤は土木局長心得の長尾半平を起用した。
長尾の尽力により7年間で6千トン級の船舶が13隻も停留できるようになった。これにより、縦貫鉄道や幹線道路との相乗効果が増し、物流体制が一気に整って行くのである。

常設展では後藤の生い立ちから晩年まで時系列で展示されている。仙台藩支藩である水沢城主の中級武士の子であり生活は貧しかったが、安場保和や阿川光祐に才覚を見いだされて実力を発揮していくプロセスが良くわかる。

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当人たちには申し訳ないが、思わず微笑んでしまうようなエピソードも掲載されていた。
士族から下農しいよいよ困窮を極めた家の生活の足しにと須賀川医学校時代に「濟衆水」なる目薬を開発し父に販売をさせた。
ところが、一年で売上が2円にも満たないのに税金を2円収めねばならず、一年で事業撤退したとのことだ。

水沢では後藤新平の存在は地元の偉人として子供たちへも深く浸透しているようだ。 水沢小学校6年生では新平新聞が発行されている。
また、「新平小検定」も開催されている。低学年用にも筆記問題が用意されている。
どれも後藤新平を不勉強な大人には回答できない問題ばかりだ。

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館内には台湾人実業家で奇美実業の許文龍氏による胸像も展示されていた。

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2007年6月4日、第一回後藤新平賞受賞記念で「奥の細道」探訪の旅で訪日していた李登輝元総統の訪問記録も飾られてあった。

後藤の台湾における活躍は、その影響を受けた後世の台湾人が引き継ぎ、現在も固い絆となって故郷水沢に里帰りしているのだ。

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最後に後藤新平と読売新聞創設者である正力松太郎にまつわるエピソードを記したい。

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記念館を背にした場所に後藤伯記念公民館という市民憩いの場がある。その入り口には後藤と正力二体の銅像がそびえ立っている。
この公民館は正力が新平の故郷である水沢に寄付を申し出て造られたものだ。
正力は後藤に対しどのような思いを持って多額の寄付を申し出たのであろうか。
正力は警視庁官房主事時代、内務大臣であった後藤の指揮下にあった。
正力は当時自ら地方転勤まで希望するほど後藤を嫌っていたようだ。
しかし、後藤は正力を自由に使い続けた。正力も直接指導を受けると、後藤の壮大な着想力や遠大な計画に次第に敬服していった。

そして、正力が虎ノ門事件で免職になった際、後藤から生活費の援助の申し出を受け感激した。
正力はその申し出は辞退したものの、後藤自身が相馬事件で収監された際、母親が訓戒和歌集の歌を家人に読み聞かせて後藤の苦労を分かち合ったというエピソードと共に渡された歌集を受け取り感謝した。
それから正力は後藤を心から敬服する先輩として尊敬するようになった。

その後、正力は読売新聞社を経営するため、資金について後藤に相談した。
後藤はすぐに「新聞経営は難しいと聞いているから、失敗したら綺麗に捨てて未練を残すなよ。金は返す必要ないからな。」と言って10円を正力に貸したという。
正力は後藤の死後になってその金は後藤が住む麻布の土地を担保に無理な借金をして作ったものであることがわかり、号泣した。
そして、後藤の郷里の水沢に公会堂を作ってほしいと建設費15万円と維持費5万円と足して20万円の金を当時の水沢町に寄付したのだった。

この施設は1941年11月に竣工した。
その名称は後藤の甥である椎名悦三郎が初めて「公民館」と名付けた。
その為ここは公民館発祥の地となっているそうだ。

二人の銅像の間には後藤の最も有名な遺訓が今もしっかりと刻まれている。

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「人のお世話にならぬよう

 人のお世話をするよう

 そしてむくいをもとめぬよう」

二人の絆を象徴するこの公民館は筆者が訪れた日も市民たちが活発な会合を重ねていた

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