児玉総督及後藤民政長官記念博物館(現国立台湾博物館)に鎮座する幻の銅像【渡邊崇之@台湾】

一目見ただけで圧倒され、その場から離れられなくなる。

0518b.jpg

今にも歩き出して来るのではと思い違うほどの精緻な造り。
生前に本人が醸し出すオーラがそのままこの銅像から湧き出ているかのようだ。
そのオーラを感じ、気づけば自然と佇まいを正し、頭を下げている自分がいる。

私は未だかつてここまで本人の香り漂う銅像を見たことがない。 (尤も本人にお会いしたことはないのだが)

第4代総督・児玉源太郎と当時の民政長官・後藤新平の銅像だ。
この二体の銅像は国立台湾博物館3階隅の「児玉・後藤銅像陳列室」に常設されている。
博物館内の種々のイベントの狭間に、突如小さいながら陳列室が威風堂々と姿を現す。
経緯を知らぬ台湾人も思わず足を止め、中を覗き込んでいる。

0518c.jpg
0518e.jpg

228和平公園内にある現在の国立台湾博物館は竣工当時「児玉総督及後藤民政長官 記念博物館」と呼ばれた。
しかし1915年3月の竣工後すぐに、博物館運営委員会は 総督府に引き渡すことを決定し、同年8月には「台湾総督府博物館 (正式名称は「台湾総督府民政部殖産局付属記念博物館」)」となった。

台湾総督府博物館は児玉・後藤記念博物館よりも遡ること7年前の1908年より既に存在 していた。
総督府の後ろにあった「彩票局ビル」(後に戦火で焼失。
現在の「博愛ビル」 に位置)内で開館していたが、児玉・後藤記念博物館からの引き渡し提案で、こちらを新館 として新たに出発することとなった。これにより収蔵品が倍増したという。

戦後、中国国民党による接収により当然のことながら、児玉・後藤両名の銅像は撤去するよう 命じられ、博物館も「台湾省立博物館」と改名された。
その後、1999年に陳水扁前総統の 台北市長時代に「省」が除かれ、現在の「国立台湾博物館」という名称となった。

0518g.jpg

ちなみに、1996年には博物館のある公園も「台北新公園」から228事件を象徴とする「228和平公園」へと改名された。

0518h.jpg

また、第2回コラムでも触れた明石元二郎と鎌田正威の 墓の鳥居が博物館前に移されたのは1997年である(2010年末に現在地に再移設)。

この時期立て続けに「正名運動」による名称変更がなされたことが伺える。
博物館の左手には 1992年に建てられた「台湾省立博物館記念碑」なるものが存在し当時の総統であった李登輝 元総統による碑文が刻まれている。
李登輝元総統の碑文から「抗日」なる表現が見られるのも 今では当時の時代を表した遺物として偲ばれる。

これら二体の銅像は台湾にある他の銅像と同様に、戦後国民党により撤去・破壊命令が 出されていたが、台湾人有志によって50年来密かに隠蔵された。
八田與一の銅像もそうだが、 こうした台湾人有志の方々の志と行動力で日台の絆は太く繋ぎ留められているのだと 感謝の念を感じずにはいられない。

0518i.jpg

児玉源太郎、後藤新平の台湾における功績はここに記すだけでコラム2~3本の紙面を 要するので、詳述は避けるが、敢えて要点のみ記してみたいと思う。

児玉が第4代総督として赴任したのは1898年、領台後3年のことだ。
後藤はそれに伴って来台し、約8年の間、民政長官として児玉の全面的な信頼の下、 台湾を不在がちの児玉に代わって台湾近代化の為に邁進した。

後藤は当時、台湾における根絶不能と言われた「4害」を短期間で一掃してしまうという 離れ業をやってのけた。

「4害」とは即ち、阿片(アヘン)、土匪(ゲリラ)、生蕃(原住民)、 瘴癘(コレラ、ペスト、マラリアなどの風土病)である。

この「4害」は日清戦争後の下関条約で清国の代表李鴻章が伊藤博文に対し、「貴国はこの4害に手を焼くだろう」と捨てゼリフを吐いたことで有名である。

後藤はそれまでの三代の総督が取ってきた土匪や生蕃への武断式統治を大きく変更した。
「ヒラメの目を鯛の目には取り替えられぬ」と言い、「生物学の原則」に従って統治する とした。
まず、現地慣習を入念に調査。
特になぜ土匪が反抗するのか、なぜ生蕃間の闘争が 絶えないのかを入念に調べ上げた。
その結果、土地での職が奪われる恐怖感が大きな原因で あることがわかった。

そこで、抵抗する土匪や生蕃に投降を促す代わりに、風土病の原因となっている自然災害対策 や衛生施設の増設の為の工事などを積極的に請け負わせた。
これにより、抗日ゲリラは激減し、同時に衛生状態も劇的に良くなった。
水道施設の敷設は一時期東京よりも普及が行き届く ほどの徹底ぶりだった。

阿片の吸引は漸禁制を採用した。まず、総督府の専売とし価格を引き上げ、吸引を免許制とし、 常習者にのみ免許を持たせ容認した。
しかし、新たな吸引者には免許は付与せず長期的な 根絶を図った。
これにより、大きな混乱が起きることなく、阿片は台湾から徐々に姿を 消して行った。
また、赤字経営の続いていた当初の台湾経営における貴重な財源ともなった のである。

これらの施策は後藤が軍人出身では無く、医学出身の政治家たる所以でもあろう。

後藤の偉業はこれだけではない。
台湾銀行創設による度量衡の統一、台湾縦断鉄道の完成、有能な技術者を次々と招聘して、製糖業や稲作業の発展なども推進した。
教育普及にも力を入れ、文盲率が激減した。招聘した技術者の中には製糖業の新渡戸稲造、「蓬莱米」開発者である 磯永吉、烏山頭ダムの八田與一などの存在があった。

またこれは余談だが、有能な技師を高俸で招聘する一方、無能と思われる1,080名にものぼる 大量の内地出身官吏を強制的に送り返している。
これは現代の日本企業の海外経営にも大いに 参考なる人事ではないだろうか。
いつの時代にも高待遇に甘んじて給料泥棒になっている人材と一部の本当に有能な人材で 組織は成り立っており、後藤は着任するや否やその組織の現状に対し大ナタをふるって人事を 断行したのだ。

これは決して後藤の決心や行動力だけで成し遂げられるものではない。
後藤の仕事がしやすくなるよう、児玉が内地での根回しなどに奔走していたことは想像に 難くない。

さて、博物館に話は戻る。

当時二人の功績を讃えて全て寄付で賄われたというこの博物館。
ギリシャ神殿を模して 造られ、わざわざ大理石をイタリアから持ち込んだという程の力の入れようだった。

0518d.jpg

博物館に入るとすぐ美しい白亜のロビーが広がっている。
現在は左右に花瓶が鎮座しているが、 元来、入って左手には児玉が、右手には後藤の銅像が入館者を迎え入れていた。
台座だけは当時の姿を残している。 是非その光景に銅像を重ね合わせながら当時の様子に思いを 馳せつつ、上方を見ていただきたい。
天井のステンドグラスは児玉家の家紋「軍配団扇」、 後藤家の家紋「藤の花」が組み合わされたデザインとなっており、細部にまで児玉と後藤の功績を 讃えている設計者の意図が感じ取れる。

0518a.jpg

2008年の博物館創立100周年を機に、それまでほとんどお目見えできなかった 児玉と後藤の銅像が3階の片隅に常設されることとなった。
先述したように台湾博物館の前身である台湾総督府博物館の創設は1908年まで遡るが、 当時はこの場所ではなく、総督府後ろの「彩票局ビル」にあった。
この博物館が「児玉総督及後藤民政長官記念博物館」としてスタートしたのは1915年である ので、児玉と後藤の銅像陳列を100周年とかこつけるのであれば、2015年とした方が格好の 付く気もする。

0518f.jpg

多少こじつけ感も無くはないが、それでもこの2008年のタイミングで常設にこぎつけたのは、 民進党から中国国民党へと再び政権が移行する時期であったことも無関係ではないだろう。
必死に50年隠蔵し続けてきた有志達、そしてなんとか銅像の常設にこぎつけた有志達。
表だって世に出ることはない人達なので真意は推し量るしか術が無いが、それでもこれら 有志の方々の並々ならぬ意志を感じるのは筆者だけではないはずだ。

児玉・後藤の魂をはじめ、博物館創設に携わった関係者達の魂、そしてそれを現在、そして 未来へと繋げようとしている台湾人有志達の意志。
銅像を巡る絆は時代を超えた今も固い。

著者紹介

渡邊 崇之:亜州威凌克集団 代表

渡邊崇之

1972年生まれ。中央大学卒。
学生時代に、東京都主催の青少年洋上セミナー訪中団、旧総務庁主催の世界青年の船、 青年韓国派遣団へ参加。バックパッカーとしても世界約50カ国を歩き回る。
特に中国・韓国へは数を多く足を運び、北京での留学や釜山での日本語教師生活の傍ら、旅行・貿易・小売業を手掛ける。
1996年、日本の一部上場経営コンサルティング会社に入社。 数々の支援先フランチャイズ本部の店舗ビジネス立上や上場支援に携わる。
2004年、アジア担当役員として「台湾経由中国戦略」を提唱し、実際に台湾・香港・中国に子会社を創設する。その後台湾に移住。
2010年、会社の戦略変更により、同社を退社してアジア各社をMBO。自ら事業を継承することとなる。
現在は在アジア日系企業の経営支援、及び日本企業のアジア進出支援コンサルティングを手掛ける一方で、アジア各地で実際に複数業態の店舗ビジネスを展開している。
多くの中国・韓国青年達と交流した経験からアジア近代史への問題意識が強く、帰国後もその研究を続ける。
台湾移住後は、主に台湾と日本の歴史的関わりを研究。特に台湾の日本語世代との交流が深い。

コメント


認証コード4793

コメントは管理者の承認後に表示されます。