謝吉原将軍を巡る謎【渡邊崇之@台湾】

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「国性爺合戦」で名高い鄭成功による台湾攻略時(1661年)の武将で、先鋒部隊の騎馬隊長だった「白馬将軍」こと謝永常将軍と、 その部将である趙勝将軍と共に、なぜか明治時代の日本将兵が祀られている。
その名は吉原小造大佐。日本の領台決定後の台湾出征で、北白川宮能久親王の直属部隊を指揮していたとされている。
なぜ200年ほども時代差のあるこの3人の人物が合祀されているか?その謎を探ってみた。
1962年のある日、台南にある中山女子中学(現在の中山国中)付近に住む住民の夢枕に、鎧兜に白いマントをまとった大柄な将軍姿の謝永常将軍が現れ次のように伝えたと言う。
「ここ(中山女子中の校庭)に、1067体の遺骨が眠っている。自分と部隊の将兵約600体の他、趙勝将軍とその将兵、そして、吉原大佐とその将兵、そして民衆達である。この者達を改めて葬って欲しい。」

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当時の中山女子中校長はキリスト教信者だった為、そのような迷信は全く信じず相手にしなかった。 ところが、数日後同じような夢を今度は数十人が一斉に見たと言うことで、またたく間に台南中の噂となった。
当時の台南市土木課長林錫山氏(後に台南市長)はこの話を聞きつけるとすぐさま校長を説得し、部下を連れて校庭を掘り起こした。すると驚いたことに、住民が見た夢の通り1067体の遺骨と300余りの馬の遺骨が発掘された。
この話は当時の新聞でも報道され話題を呼んだ。すると、官民から一斉に寄付が集まり、すぐさま廟を建設することが決まった。
そして、1972年11月に現在の慶隆廟が落成した。

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中央の主祭神として「白馬将軍」こと謝永常将軍像が座り、左に趙勝将軍、そして右に吉原将軍が構える。
当時の国民党政権による戒厳令下では日本人の神を正式に祀る事ははばかられた。
そこで、主祭神の謝将軍の姓を借りて、「謝吉原将軍」とした。 写真には前後に3体、計6体の像がある。
前面の鮮やかな3体は最近の像、後方の3体は戒厳令下のものである。
ご覧のように、後方の3体はそれぞれとても似通っており、吉原将軍もこれでは日本人とは似ても似つかぬよう完全に「同化」している。

廟の管理者達は委員会を発足させ、数年に一度の選挙で委員を選出し運営することとした。
しかし、第4回(1985年~)の委員会から、委員の間で内紛が起き、廟はラマ教の様相を呈するようになった。
また、いつしか当時の経緯を知る者も少なくなり、吉原将軍も吉元将軍(中国語発音では「原」も「元」も同じ)とも言われたり、謝将軍、趙将軍と同時代の将軍で、鄭成功の部下だと語られるようになって行った。

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その後紆余曲折あり、2004年、実に19年ぶりに委員会選挙が開催され、第5回委員会が発足した。
この時の委員は林錫山氏が主導して廟を建設するに到った経緯を知る人達で組織され、廟の再建を図って来た。
現在はその流れを引き継いだ第6回の委員達で運営しており、総務主任の顏榮松氏が参拝者に詳しく廟の経緯を説明している。

しかし、遺骨の発掘当時から一貫して同じ人が管理して来たわけではない為、残念ながら真実に 到らぬ謎も多い。
顏榮松氏によると吉原小造の死は明治が始まって5年後(即ち1872年)で、遺骨の様子から毒矢に当たって戦死したとのことだ。
この時期は前回コラム(第9回 参拝者溢れる日本人だけを祀る廟)で紹介した田中綱常が「征台の役」前に先遣部隊として台湾に調査派遣された時期と重なっている。
しかし、その時期は北白川宮能久親王はドイツ留学中で、陸軍にも入隊していないため、能久親王の親衛部隊長とは時期的に合致しない。

また、第4回委員会時には吉原将軍像が5、6体もあったと言う。吉原将軍の由来が間違って伝わっている時期に、なぜ熱心に神体を増産していたのかもまた不思議な謎である。

そもそも、謝将軍や趙将軍と同じ場所になぜ明治時代の日本兵の小隊が埋葬されていたのかも不明のままである。
ほとんどの情報は住民の夢枕や霊能者を介したお告げに頼るものの為、ある意味致し方ない部分もあるだろう。
逆の見方をすれば、そのお告げがここまで史実と重なり合って語り継がれている奇蹟を驚くべきか。

数年前に再びその奇蹟は起こる。
ある日、委員が廟の裏にある遺骨収容所を整理していると完全な形で残っている頭蓋骨が出て来た。
そこで早速霊能者を通じて主祭神の謝将軍に訊ねてみると、この遺骨は馬信元帥だと言う 調べて見るとこの馬信元帥は謝将軍の上官に当たり、鄭成功の右腕でもある元帥だった。
謝将軍は死しても尚、現代の人々の手を借りて上官である馬信元帥を迎えに行ったのだと、人々の感動を呼んだ。

謝将軍、趙将軍、吉原将軍、いずれも台湾人では無い。
それでも将軍達が発する神の声を信心深く実行に移し、現世の御利益に取り込もうとする台湾の人々に、将軍達もまた感謝しているに違いない。

著者紹介

渡邊 崇之:亜州威凌克集団 代表

渡邊崇之

1972年生まれ。中央大学卒。
学生時代に、東京都主催の青少年洋上セミナー訪中団、旧総務庁主催の世界青年の船、 青年韓国派遣団へ参加。バックパッカーとしても世界約50カ国を歩き回る。
特に中国・韓国へは数を多く足を運び、北京での留学や釜山での日本語教師生活の傍ら、旅行・貿易・小売業を手掛ける。
1996年、日本の一部上場経営コンサルティング会社に入社。 数々の支援先フランチャイズ本部の店舗ビジネス立上や上場支援に携わる。
2004年、アジア担当役員として「台湾経由中国戦略」を提唱し、実際に台湾・香港・中国に子会社を創設する。その後台湾に移住。
2010年、会社の戦略変更により、同社を退社してアジア各社をMBO。自ら事業を継承することとなる。
現在は在アジア日系企業の経営支援、及び日本企業のアジア進出支援コンサルティングを手掛ける一方で、アジア各地で実際に複数業態の店舗ビジネスを展開している。
多くの中国・韓国青年達と交流した経験からアジア近代史への問題意識が強く、帰国後もその研究を続ける。
台湾移住後は、主に台湾と日本の歴史的関わりを研究。特に台湾の日本語世代との交流が深い。

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