義と愛に生き続ける日本人巡査【渡邊崇之@台湾】

生前は無名の教師や軍人が死後に神となった例はこれまでも本コラムでいくつも紹介してきたが、同じ生前無名でも死後最も有名になった日本人の神は間違いなく今回紹介する人物に違いあるまい。
日本の台湾領有初期の下級官吏であった森川清治郎巡査、その人である。今は神籍に入り人々から「義愛公」と愛し称されている。

台湾南部にある嘉義東石郷副瀬村の富安宮では義愛公のご神体が今でも大切に飾られている。
併設の事務所内には森川巡査の生前の様子を語る写真や文献が大切に保存されている。
普段は他の神と共に奥の方へと飾られている義愛公のご神体も「義愛公を訪ねて来た。」と言えば事務所のスタッフがすぐに取り出してくれる。
事務所内の文献を隈なく説明してくれ、台湾人には中国語、日本人には日本語の義愛公に纏わる小冊子を無料で進呈してくれる。
これから記すエピソードも多くはここで収集させて頂いたものだ。また、熱心にそれを眺めているとお茶もお菓子もどんどん勧めてくれる。
義愛公に関心を持つ来訪者にとことん親切なのだ。森川巡査の「義愛」が村民の子孫に脈々と受け継がれていることを訪問した瞬間から肌で感じることができるのだ。

森川巡査、1861年生まれ。日本が台湾を領有するまでは横浜で監獄の看守をしていたようだが、1895年の領台を機に警察官へ転身を決意し1897年5月に巡査となって台湾各地で勤務することになる。
1900年に現在祀られている副瀬村に赴任することとなり、その直前に妻子を日本から招いた。

副瀬村は痩せた土地と浅瀬の海の厳しい生活環境にあり、村民は半農半漁でようやく糊口をしのぐという厳しい生活を余儀なくされていた。そして当時の台湾全土がそうであったように副瀬村もまた、マラリア・コレラ・ペストなどの伝染病が猛威をふるい、匪賊が頻繁に出没するという衛生環境や治安にも悩まれていた。

森川巡査はこの現況を滅私奉公の精神で着実に打開して行った。まず、何よりも先に教育の普及が大切と、富安宮内に寺小屋式の私塾を開いた。自費で教師を雇い、時には自らも教鞭を取った。
そして、我が子真一も台湾人と同じく机を並べさせた。優秀者には自費で紙・筆・墨などを贈呈し、我が子が受賞した時は除外してその次の者を賞した。
衛生改善にも地道な指導を行っている。まず、家の周りに排水溝を掘らせて汚水を流させた。
各家庭における飲食物の扱い方などについてもこと懇切丁寧に細かく教えた。 農地の改良や農耕技術の改善についても自ら鍬を持って率先垂範で指導した。
勉学に励む子供だけでなく良く働く優秀な大人にも自費で農機具を進呈するなどして奨励した。
警察官の本業としての巡視も森川巡査が行う場合はいわゆる監視ではなく、慈愛に満ちた激励だった。
病める者には薬を、貧しい者には物品を与え、落ち込む者にはねぎらいの言葉をかけ、村民の生活苦に心から同情し労わったのだ。

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右の写真をご覧頂きたい。1901年に巡査の同僚たちと撮った記念撮影の一枚である。
警察官は当時では珍しい皮のブーツを履くこと ができた。しかし、森川巡査だけは草鞋を履いていることがわかる。
貧しい民への施しや頑張る者への奨励など惜しみなく自腹を切って出費する一方で自らの身辺は清貧を貫いていたことが良く分かる写真だ。自己の利を一切顧みることなく「義」に従って行動し、村民達を心から「愛」した森川巡査。「義愛公」とは将に森川巡査の遺徳を表すにふさわしい諡名であろう。

森川巡査が副瀬村に赴任した翌年の1901年から台湾南部には滅多に起こることの無い大干ばつが発生した。
その翌年はほとんど雨も降らず、干ばつはいよいよ激しさを増して行った。そんな最中、総督府は新たに漁業税を実施する。
この漁業税は一般の船だけでなく、筏などの簡易船にまで課税する厳格なものだった。この課税は浅瀬の簡易船で漁業を行う副瀬村にも多大な影響を与えた。
ただでさえ大干ばつで農業に大きな影響を与えていたところに、漁業にまで課税されては貧しい農民はとても生き延びていけない。
村民たちの悲痛なる懇願を受けた森川巡査は台南州東石支庁まで出向き、必死に村民の実情を訴えた。
しかし、当時の東石支庁長は激怒した。この陳情を森川巡査が村民を扇動しているものとして、逆に戒告処分に処してしまったのである。

森川巡査は定期召集日に村民に向かって、沈痛な面持ちで陳情が届かなかったこと、それどころか誤解をされて戒告処分という扱いを受け、同僚や村民にまで迷惑をかけることになってしまったことを声震わせながら伝え、ひたすら自らの非力を詫びた。

その二日後の朝9時頃、宿舎兼派出所の西南にある慶福宮から一発の銃声が聞こえた。
驚いた廟守が現場に駆け付けると森川巡査が自ら喉を打ち砕いて仰向けに倒れていた。
後に東石庁長からかけつけた警部が遺品を調べるとポケットから一枚の名刺が出て来た。
そこには「疑われては弁解の術もない。覚悟する。」と書かれていたと言う。
森川巡査享年42歳。
慈父とも慕う森川巡査の悲報を聞き、村民たちは遺体にしがみついて嗚咽した。

この事件が起こるとたちまち総督府は大騒動になった。
訓戒処分を下した巡査がそれを誤解であると暗に表明して自殺したのである。
慌ててその訓戒処分は取り消され、台南州知事は警察官の鑑として森川巡査を表彰した。
そして、税金については査定に誤りがあったという名目で村民全員が再申告した結果、従来と同様の税額で落ち着くことになった。森川巡査は文字通り身を賭して重税の苦から村民たちを守ったのだ。
この故事は後に伝記「明治の呉鳳」というタイトルで小学生たちに伝えられたという。
しかし、森川巡査の死についてはペスト患者救助中に自らも感染して無くなったと改竄されていたそうだ。

死後20年が経過した1923年2月5日、副瀬村の隣村で脳炎が発生した。
2月7日夜、副瀬村のある村民の夢枕に警官の制服に身をまとい制帽をかぶった森川巡査が現れた。
手には提灯を灯し家の玄関に立って「隣村では悪病が蔓延している。全村の衛生と各家庭の飲食衛生に注意するように。
そうすれば村は平穏無事になるだろう。」と告げて消え去った。ただちにこの村民は全村にこのことを伝え、見事副瀬村は脳炎の被害を防ぐことが出来た。

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このことに深く感激した村民は、直ちに協議して森川巡査のご神体を作ることにした。
村民の夢枕に立った姿と同じ警官の制服、制帽姿で帯剣した威厳のある座像だ(写真:左)。
その後、これを知った息子信一の妻アイとその外孫岡勲氏により二体の副像が寄贈された。
義愛公伝は台湾各地域にも広がりを見せ、現在新北市新荘北巡聖安宮には義愛公の分霊も祀られている。

富安宮では旧暦4月8日の大祭時には盛大に祭典が催されている。死後100年以上経った今でも副瀬村では代々義愛公の遺徳が語り継がれている。
富安宮に行けばまるで本人に会ったことがあるかのように遺徳を語ってくれる人であふれている。

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