ああ!劉維添先生逝く【渡邊崇之@台湾】

何ということだろうか!台湾の父とも祖父とも慕う劉維添先生が身罷られてしまった。

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戒厳令下の1976年から、7年前からは最後の生存者となられてからもずっとマニラ市街戦時の上官である廣枝音右衛門警部の慰霊を続けておられた劉維添先生が、
慰霊祭斎行直前の当日1時20分、ご自宅近くにある苗栗県頭份の病院で廣枝警部のもとへ旅立たれた。
満91歳と3ヶ月だった。

9月21日、不穏な夜明けで一日が始まった。
早朝から台湾は台風の真っ只中だった。

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ウサギと言う名付けには到底ふさわしくない超大型の台風は、幸い南部のバシー海峡を通って中国大陸へ抜けて行くルートだったこともあり、北部は強雨こそあれ、さほど風に悩まされることは無かった。
けたたましく台風情報を流すテレビニュースも、慰霊祭会場の中部までは台風の影響をぎりぎり避けられる見込みとのことだった。
それでも中部からの参加者は強い横殴りの風雨の為、急遽断念の連絡が入った。
台北出発組からも数名のキャンセルが出た。

早朝に劉先生の自宅へ慰霊祭決行の一報を入れると、果たして劉先生ではなく奥様がお出になられた。
普段は日本語と北京語を織り交ぜて穏やかにお話をされる奥様が、この日は何故か客家語で、しかも慌てたご様子で必死に何かを訴えかけているようだった。
残念ながら、客家語を解さない私はただならぬ状況を察するのみで、北京語で慰霊祭決行とご自宅への到着時間をお伝えして受話器を置いた。
前週にお宅へお邪魔した時も、劉先生とは側に付き添ってようやく会話が成り立つ程で、お電話ではほとんど日本語での会話ができなくなっていた。
ここ数ヶ月のうちにみるみる衰弱が進んでおられるそのご様子に愕然とした。
その為、当日も衰弱がより一層激しくなっているのではと覚悟していたが、まさかその時既に天にお召しになっていたとは予想だにしていなかった。

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こうして第38回廣枝音右衛門氏慰霊祭ツアーのバスは台北駅を発ち、一路台湾中部の苗栗県獅頭山勧化堂へと向かったのだった。

思い起こせば昨年の慰霊祭にも予兆があった。
慰霊祭当日、心臓発作を起こされた劉先生は病院へ搬送中、その責任感から必死の思いで自らお電話を下さり、慰霊祭には急遽参列できなくなる旨の一報を頂いた。
幸い午後には回復されてご自宅に戻られ、無事に慰霊祭参列者と対面を果たすことができた。
その時劉先生は参列者に向かって、
「皆さん、この度は皆さんと共に慰霊祭に参列できず、誠に申し訳ございませんでした。来年は必ず良くなって皆さんと共に山(獅頭山勧化堂)の上でお会いしたいと思います。ですから、それまで皆さん、どうか私を死なさないで下さい。それまで私を生かしてください。どうか宜しくお願いします。」
と必死で声を振り絞った。

その言葉に感動した参列者の中には劉先生への激励の手紙を送られた方もいらっしゃった。
思えば、劉先生もあの時から一年、参列者との約束を果たす為、必死の思いで生き抜いていたのだ。

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高速道路を降り、南部からの参列者を待つ頭份での休憩(劉先生のお亡くなりになった病院近く)時、皆一様に首をかしげつつ天を向いていた。
雨がすっかり止んでおり、南へ向かう程強くなると思われた風も全く吹いていないのだ。
その天候は獅頭山へ向かう程、より一層穏やかなものになっていった。

劉先生の訃報を聞いたのは獅頭山に到着した直後の事だった。
日本語堪能な娘婿から携帯電話に連絡が入った時、私は文字通り頭が真っ白になった。
その時電話で何を話したのかはっきり思い出すことはできない。
ただ、天を仰いだ時に見えた暗雲から穏やかな木洩れ陽が差し込んでいた情景だけは脳裏に焼き付いている。
台風直下の台湾に突如奇跡的に姿を覗かせた、天から地上へ差し込む錦繍の糸のような木洩れ陽は劉先生がいつも醸し出すあの慈愛ある暖かみそのものだった。そして、その慈愛と暖かさは劉先生が日頃から口にしていた廣枝警部から受け継いだオーラそのものなのだろう。

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「渡邊さん、後は貴方に託します。貴方がいるから私は安心して逝けます。ひろえ(台湾の方々は親しみを込めて廣枝警部のことをこう呼んだ)隊長と天から貴方をいつまでも見守っていますよ。」

敢えて慰霊祭直前に天に召されたあの穏やかで優しい劉先生の魂はこの木洩れ陽を通じて自然とこう語りかけてくれているように私には思えた。
それは、言語という手段ではなく、魂から心に直接そのメッセージを投げかけてくれているようだった。

劉先生に出会ったのは仲間の生存者四名が立て続けにお亡くなりになり、初めてお一人で慰霊祭を執り行われた翌年の2008年初夏のことであった。
勧化堂にひっそりと安置されている廣枝警部の位牌を前に背筋をピンと伸ばして報告されるそのお姿は、若き日の中山(劉先生の日本名)小隊長そのものだった。

「ひろえ隊長!本日はわざわざ臺北より渡邊さんがお越しになられました。」

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自ずとこちらもピンと背筋が伸びて来る。廣枝警部の位牌に語り続ける劉先生。
そしてその芯の通った威厳ある背中を見る自分。
何度もこの軍人同士の会話を聞いているうちに、私はいつしかこの時間軸で連なった歴史のバトンリレーのトラック上に在り、劉先生からのバトンを受け継ぐ準備運動をしているようであった。
そして、自然とこの慰霊祭を今後50年、自らが引き継いでいくことを劉先生に誓っていた。
あれから5年。
とうとう劉先生はしばらく二人で握り合っていたそのバトンを手放し、廣枝警部のもとへ行ってしまわれた。

「廣枝隊長!本日1時20分、劉維添先生が満91歳でお亡くなりになりました。今後は私が劉維添先生に代わり、45年間この慰霊祭をここにいる皆さんと共に守ってまいります。」

一人でバトンを握りしめることになったその言い知れぬ寂しさを振り切るように、私は廣枝警部の位牌の前で改めてそう誓った。
今後の廣枝氏慰霊祭は即ち、劉先生の命日でもある。来年からは新たに劉先生の位牌も安置したい。
そして、この二人の絆のバトンリレーを戦後世代の私たちはできる限り長く、正確に後世へと伝えて行かねばならない。
それがこの時代に生き、ここ台湾に住む日本人の使命なのだと思っている。

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獅頭山から南庄の町に下り、すぐに劉先生の自宅を訪ねた。
既に立派な祭壇が作られ、奥には安らかな表情で劉先生が眠っていた。

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「劉先生、慰霊祭の事はどうかご心配なさいませぬよう。後は私が責任を持って守って行きます。安心してひろえ警部のところへ行かれて下さい。今は積もる話もあることでしょう。まずは、ひろえ警部との語り合いをゆっくりとお楽しみ下さいね。そして、いつまでも、いつまでも私達を見守っていて下さい。」

こう語りかけると、お二人の楽しそうな笑顔が思い出され、そして次に劉先生との思い出が次々と走馬灯のように巡って来た。
参列者も皆祭壇に手を合わせご遺体と対面した。多くの方が涙を拭われていた。
日台絆のバトンリレー。託されたバトンは重い。廣枝警部と劉先生には後世代への受け継がれてゆく、その行く末をしっかりと見守っていて欲しい。

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バスが台北駅に着く頃には再び空は雨模様の天気となっていた。
参列者は皆、この奇跡的な一日を通し、歴史の瞬間に立ち会ったという言い知れぬ運命を感じていた。
誰一人、この一日の出来事の数々を偶然の産物と片づけようとする人はいなかった。
廣枝警部が自らの死を持って部下たちに伝えてくれたことのように、劉先生が自らの死を持って、私達に伝えようとしてくれた意味を深く胸に刻み込みたい。

10月3日9時より南庄にある劉先生のご自宅で葬儀が営まれる。
劉先生との最後のお別れを惜しんで来たい。

劉維添先生、安らかにお眠り下さい。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

渡邊崇之
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