廣枝音右衛門

マニラ市街戦から受け継ぐ絆のバトン【渡邊崇之@台湾】

「イントラムロスの中に、大きな教会が一つ。
そう、サンオークスティン教会があるでしょう。
そこを背にすると、左手に城壁があるから、その城壁伝いに真直ぐ150から200メートルほど行って下さい。
その城壁から数メートル離れたところに壕があったんです。
そこです。そこで廣枝警部が自決なさったんです。」

携帯電話から聞こえる劉維添氏の声を頼りに、マニラ市内の古城イントラムロスをさまよう。
60数年経っても劉氏の記憶はあたかも昨日のことであるかのように、確かな場所を指示している。
それは痛いほど分かっているのだが、如何せん、舗道や建築物の構造は当時と比べ、余りに変わってしまっている。
ようやく辿り着いた場所は舗装され、露天が並んでいた。幸い、城壁の側、数メートルだけは、舗装されずに土がむき出しになっていた。突如土を掘り出した日本人に、
城壁の上からマニラホテルのライトアップを楽しんでいたフィリピン人カップルが反転し、物怪顔でこちらに視線を向けて来る。
「今度は俺がこの土を劉維添氏のもとに届けたい。」
その一心だった。
ようやくかき集めた硬い黒茶色の土を手に目を閉じ、この地で起きた半世紀以上も前の激戦に思いを馳せた。

1945年2月23日午後3時頃だった。

「お前達は台湾から来た者だ。家には妻子父母兄弟が待っているだろう。
連れて帰れないのが残念だが、お前達だけでも、生けるところまで行け。俺は日本人だから責任はこの隊長が持つ。」

台湾人日本兵の海軍巡査隊約500名を率いてマニラの守備に着き、海軍陸戦隊としてマニラ市街戦を戦った廣枝音右衛門大隊長が最後に遺した言葉である。
この言葉を最後に、廣枝氏は壕の中で拳銃二発、頭部を撃ち抜き自決したのだった。劉維添氏を含む台湾人日本兵達はこの数時間後、米軍に投降することとなる。

劉維添氏の実戦体験を基にして、マニラ市街戦の経緯を記してみたい。

1945年1月9日、リンガエン湾から上陸した米軍は徐々に南下し、先鋒隊がマニラに到着したのは同年2月3日夕刻のことだった。
当時、廣枝隊はマニラ市内のガス会社の警備に当たっていたが、米軍先鋒隊到着の500メートルと離れぬ近距離にあった。
すぐに一隊は艦隊司令部のある農務省ビルへ移動を開始する。
普段歩けば15分程度の道のりを、敵に気付かれぬよう2時間かけて迂回した。

マニラに対する陸・海軍の認識は相反していた。陸軍はマニラ市を放棄してオープンシティーにし、山奥での徹底抗戦を主張したのに対し、海軍は強硬に反対した。
結果、日本軍は海軍陸戦隊を中心とした戦力となる。陸軍が撤退した後、2月10日頃から米軍は街中に火を放ち、マニラ市は火の海と化した。
家という家が焼け落ち、橋も全て焼け落ちた。結局マニラ市街戦が終局するまでの約2週間、この大火は消えること無く、当時美しい近代都市の様相を呈していたマニラの全てを焼き尽くされた。

2月12日からは無差別砲撃が始まった。隊員達は迫撃砲など実戦を経験するのは初めてで、最初は右往左往するばかり。
この右往左往している時期が一番危ない。距離感や着弾時間が全く分からぬため、多くの死傷者が出た。

農務省ビルは逃げ場が無いほどの迫撃砲を受け、小隊長であった劉維添氏の隊員達も4名が重傷、劉氏自身も小指に軽傷を負った。
劉氏はすぐに砲弾をくぐり抜け、100メートル程先にいた廣枝大隊長に報告をしに行った。
廣枝氏はすぐさま重傷者のところに駆けつけ、次々と抱き寄せては大声で名前を呼び、目には涙をためながら、励まし続けた。
廣枝氏は迫撃砲弾が降り続く中、危険を顧みず、5キロも離れた病院へ重傷者達を自ら護送した。
しかし、この重傷者達は結局帰らぬ人となった。

艦隊司令部もいよいよ陥落の危機となり、2月中旬には農務省ビルの目の前にあるルネタ(リサール)公園を越え、向かいのイントラムロスへ全軍が終結することになった。
夜中、敵の目をかいくぐるように、広いルネタ(リサール)公園を匍匐(ほふく)前進で移動する。
頭上には機銃弾のヒューヒューと言う音が鳴っている。

やっとの思いで、イントラムロスの城内に入場すると、所持していた歩兵銃は取り上げられ、代わりに棒地雷と円錐弾を支給された。棒地雷とは1メートルほどの竹槍に地雷をくくりつけたもの、円錐弾は約2メートルの棒の先に直径20センチメートルの円錐型の爆薬が取り付けられたものだ。
どちらも戦車に体当たりするための兵器である。海軍陸戦隊はこの時期になって特攻隊として、突撃命令が下されたのである。

それから、連夜のように一個小隊30~40人、将兵は日本刀、一般兵は竹槍で突撃して行った。
白昼に10数名で突撃して行った部隊もあった。
勿論帰って来る者は一人もいない。
すぐに城外の公園は死体の山と化した。
廣枝隊にも突撃命令が下りていた。
しかし、廣枝氏は隊員に突撃の命を下さなかった。

台湾人を部下に持つ廣枝氏は他の部隊長とは異なる使命感を持っていたのだろう。
軍人として、日本人としての道を全うしつつ、台湾人の部下をどう無事に帰してやれるのか。
自らの力ではどうにもならない戦局。
普段から口数の少なかった廣枝氏はこれを機に一層無口になって行った。

2月20日になると、米軍の日本語による投降勧告がなされるようになった。
その時点では、既にイントラムロス城内に米兵が入り込むようになり、敵か味方かも区別が付かない状態になっていた。
日本兵は防空壕の中に身を潜め、出合頭に捨て身で切り込むという戦法だった。
近い時には敵の話声まで聞こえる位で、30メートルも無い距離に相対していたこともあった。

2月23日午後1時頃、「敵だ!」という声で、廣枝隊はとっさに左右に分かれた。
劉氏は8名の隊員と共に右へ、廣枝氏はその他の部下と共に左へと二手に分かれた。
劉氏が廣枝氏を目にするのはこの時が最後となる。壕に入った廣枝氏はいよいよこれまでだと観念したのだろう。
同じ壕にいた部下の楊坤芳氏に自分の軍刀を託し、冒頭の言葉を遺言にして、見事な自決を遂げる。廣枝音右衛門氏、享年40歳。

廣枝氏と別れた劉小隊長一隊は、その数時間後に城壁の向こうから福建語らしい言葉で投降を呼びかける声を聞くことになる。
客家出身の劉氏は福建語を流暢には話せないものの、大体のことは聞き取る事ができる。
しかし、福建出身の者にはゲリラも多く、最初はゲリラの罠だと警戒していた。だが耳を澄ませると、どうやら台湾人の話す福建語らしい。
当初、劉氏は仲間に自決を呼びかけたが、先に投降した台湾人日本兵による呼びかけもあり、投降後も身の安全が確保される望みを感じ、意を決して投降することになる。
直接廣枝氏の遺言は聞かないまでも、普段からその気持ちは隊員達も十分汲み取っていた。両手を挙げ、思いっきりこう叫んだ。

「わーしーたいわんらん(福建語で「私は台湾人だ」という意味)!」

こうして、劉小隊長以下台湾人日本兵達の戦闘は終わった。

ここで、注記しておきたい事が二つある。ある取材では、廣枝氏が「投降してでも生き延びろ」と投降を明言しているような表現があるが、少なくとも劉氏はそれを明確に否定する。
当時の軍規からしても、上官が投降を堂々と口に言える状況では無い。
但し、隊員達は当時の戦局と廣枝氏の言葉の様子から、投降を暗示していることは感じとっていたのである。

また、廣枝氏が密かに米軍と交渉した、という表現が見られる取材記事もあるが、それも当時の状況からすると考えられないことであり、一部に劉氏を伴って秘密交渉を行ったという記載について、劉氏は明確に否定している。
上述した劉氏の投降前後の緊迫した状況での判断を考えれば、交渉の場を持つことなどは考えられず、イチかバチかで投降を試みるしかなかったと見るべきだろう。

時が流れること31年。
1976年9月26日、台湾中部の猫栗県竹南鎮獅頭山勧化堂にて故廣枝音右衛門警部(戦地に赴く前には台湾新竹州の警部を勤めていた。)の英霊安置の式典が行われた。

当時まだ中国国民党による戒厳令下の施政で、旧日本軍人を祀ることなど不可能に近かった時代である。
その為、廟の建設などは不可能に近く、劉氏を始めとする生還した元隊員達は普段より誼(よしみ)の深い獅頭山にお願いし、永代仏として合祀、供養してもらうことにした。
これならば、当局の許可も要らず、隊員達亡き後も、寺が永代に渡り供養してくれることになるからだ。それから、この式典の日を安置日の9月26日と定め、毎年欠かさず慰霊祭を執り行ってきた。

当時は多くの戦友と共に慰霊祭を行っていたものの、歳月の流れと共にその数も減り、4年前には生き残った5名のうち、立て続けに4名が他界し、今は劉氏只お一人である。
4年前は気丈にもお一人で慰霊祭を催されたという。

筆者がこの劉氏と初めて出会ったのは、お一人で慰霊祭を執り行われた直後のことだった。
それ以降、毎年慰霊祭に参加させてもらっている。今年は9月25日(日)午前11時頃から執り行われる。

劉維添氏。
今年で90歳となる現在も矍鑠(かくしゃく)とされている。若き日の軍隊生活における習慣からか、いつも背筋がピンと伸びていて、相対する方も自然と身が引き締まる。
それでいて、自然と醸し出される温かみがある。これは余談になるが、日本統治時代に功績のあった日本人を神として祀って下さるご神体像はどの像も背筋がピシッと伸びているのが印象的だ。
恐らく当時の台湾人からは日本人は常に背筋を伸ばしているように映ったのだろう。
その教育を受けた劉氏にもそれが自然と受け継がれているように感じる。

筆者自身は廣枝音右衛門警部氏にお会いすることができないが、劉氏を通じて、その遺徳はまばゆいばかりに伝わってくる。
それは、劉氏の伝聞による廣枝氏の生き様だけでなく、劉氏自身の生き様を通してもひしひしと伝わって来るのだ。
廣枝氏が台湾人の劉氏に宿した遺徳に、時代を超えて今、日本人である筆者が浴することができている。
では、劉氏の生き様を通じて廣枝氏が見えて来るように、自分は数十年後に、自分の生き様を通じて劉氏、廣枝氏を後世に伝えることができるのだろうか?このコラムタイトルに名付けた「日台絆のバトンリレー」。
これは自分の生き様への挑戦でもある。

1985年、実に40年ぶりに劉氏は妻を伴って、あの激戦地マニラに再び足を踏み入れた。
廣枝氏自決の場で拾った土を、茨城県取手市に住む、ふみ夫人に渡すためである。
劉氏曰く「ふみ夫人に廣枝隊長自決時の土を渡せたことは一生の幸せであった。」とのことだ。
その土は全てふみ夫人に託し、劉氏自身はお持ちでないと聞き、筆者はどうしても劉氏の側にその土を捧げたくなった。

目を開けると、壁上からカップルがまだこちらの様子を伺っている。
どうやら筆者の奇行が会話のネタになっているようだ。
泥だらけになった姿に見かねた露天の店主がこれで手を拭けと、濡れたタオルを手渡してくれた。

この土は現在、獅頭山勧化堂の静寂さに包まれて、廣枝氏の位牌と共にある。

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