「意識が低い!」【小尾春氏@ベトナム】

ある公衆衛生に関する技術者達を対象に、課題分析のセミナーをしていた時のこと。まずは現在の仕事上の問題を出してもらう。すると「住民が〇〇の使い方を理解していない」「住民の意識が低い」…。更にその問題の原因を出してもらうと「住民がよく理解できていないから」…。どこまで分析を進めても、主語に自分自身が出てこないのが印象的だった。こうなっては解決策も出しようがなく、一時セミナーは暗礁に乗り上げ、講師は頭を抱えた。

最近はベトナムでもあまり聞かなくなったが、私が嫌いな言葉に「dân trí thấp」という言葉があった。単純に漢字に直すとdân tríは「民知」、民衆の知的レベルということで、日本でももう使われない「民度」という言葉とほぼ同義だと思う。thấpは「低い」。つまり「民度が低い」ということになる。勿論自分自身について言う時にこの言葉は出てこない。大体農村や貧しい人々について語る時にお決まりのように出てきた。この言葉は「カネがない」という言葉と同じくらい、問題の原因を自分以外のところに追いやり、解決への思考を止めてしまう言葉だと思っている。この言葉を出されると、何となく問題の原因を言い当てた気持ちになり、またその原因が自分にない以上、思考は硬直し、議論もそこで終わってしまう。本当は、その先に答えがあるかもしれないのに。

最近は、「dân trí」という強烈な言葉は使われなくなり、ややソフトな言い方になったものの、「意識が低い」「理解していない」というのは結局同じことを指している。「農家の人達は、近代的な農業手法を理解していない」「住民の意識が低く、ゴミの分別ができない」等々。言葉の向こうに、農業関連や公共サービス系の役人の焦りのようなものが見て取れる。近代的な知識やら学問やらを学んだエリート側と、そうでない向こう側との間の隔たりを表現しているようで、またエリート側の知識や考えは絶対に正しい、という自信も感じられる。

ただ、いつも言いたくなるのは、言っている本人はどうなのか?そんなにご自分の意識は高いんでしょうか?ということ。そして、本当に「自分以外の人達=農民や一般の人達」の「民度」は低いのだろうか?更に、近代的な農業手法等々、「彼らが理解していないこと」が必ず正しく、学ぶべきことなのか?疑問は尽きない。 実際、私もベトナムの農家の人たちと仕事で接触する機会が以前はよくあったのだが、彼らの「民度」が低いという印象は持たなかった。彼らは自分たちの農地でできる作物から生計を賄っている「個人事業主」であり、その意味で自分たちの主業に対して熱心であり、寧ろ敏感に状況の変化等を察知していると感じた。彼らが役人達にとって「よし」とされる行動を取らない理由は、別のところにあると思う。

よく「ベトナムのことは、ベトナム人にしかわからない」と言われる。言葉がいくらわかっても、ベトナムのことは俺たちにしかわからないんだよ、と。だけれど、こういう状況に居合わせるにつけ、結局ベトナムの魅力やチャンスを見出す一翼は、外国人が担うのではないかと思う。「民度が低い」で思考を停止させず、或いはその言葉そのものの意味を問い直し、また「あちら側」と「こちら側」を自由に行き来できるのは、外の人でなければ難しいのではないかと思うのだ。

著者紹介

小尾晴(おび はる) 旧姓 大村
サイゴン証券株式会社 Director 兼 日本ビジネス開発部部長

小尾春氏

1973年石川県生まれ。
津田塾大学学芸学部国際関係学科卒業、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。大学院在学中にハノイ国家大学に留学。
農村開発調査コンサルタントとしてJICAやJBICの案件に参加後、日本アジア投資株式会社に勤務、ホーチミン市に赴任。
2007年よりベトナム最大の証券会社であるサイゴン証券株式会社に当時唯一の外国人スタッフとして勤務、日系顧客を担当。
現在は退職し日本に帰国、通訳として活動中。

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