言葉について 【小尾春氏@ベトナム】

第10回 言葉について

ベトナム語を日々使うので、言葉についてはいろいろと思うところもあり、またよく尋ねもされる。ベトナム語の独特な点の一つに呼称があると思う。絶対的な「私」や「あなた」(英語のIとYouに相当する言い方)がなく、全て家族関係に置き換えることだ。父母、伯父伯母、叔父叔母、兄姉、妹・弟。相手をお兄さんと呼ぶなら、自分のことは妹(弟)と呼ぶ。相手を兄と呼ぶには年上で(10歳以上年上)、でも自分の両親よりも年下なら叔父叔母になる…など。その他、職業による呼び方(先生など)もあり、それぞれ自分自身の呼び方も相手に相応する形に変わっていく。恐らく、こういう呼び方はアジアの言葉には共通なのだろうが。

相手の呼称はともかく、自分の呼び方も相手に合わせて変わっていくのには、最初は戸惑った。また、呼び方による心理的な影響も案外大きくて、相手が年下で自分をお姉さんと呼べば、何となく姉御肌なキャラクターになり、相手がお兄さんやお姉さんで自分が妹なら、何となく大人しくなる。これは、便利な面と不便な面の両方があるなあと感じている。

便利なのは、その場その場で自分の役割が与えられること。姉なら姉、妹なら妹としての相手に対する振る舞いの様式があるように思う。ただの「私」と「あなた」よりも関係性を明確で親密な形に規定される分、関係が作りやすくなるように思う。実際問題、絶対的な「私」なんてものはなくて、その場その場で自分の役割も求められることも変わっていくのだから、それを自覚させてくれる呼称は有難い、というわけだ。

 不便なのは、まず相手の呼称を予測するのが困難なこと。まず顔を見て大体何歳くらいかな?と当たりを付けるわけだが、これが外れることもある。ベトナム語では、適切な呼称=敬語の面もあり、不適切な呼び方は失礼にあたるので気を遣う。尋ねられるようなら会うなり年齢を尋ねて何と呼ぶか決めるが、人によっては「お兄さん」の年齢であっても「叔父さん」と呼ばれたい人もいるし、またその逆もいる。その辺は、尋ねられるようなら尋ねるし、かなり目上の人との正式な会談の席などでは、事前に秘書の人に尋ねることもある。相手を何らかの形で呼ばなければ会話は始まらないし、その呼び方次第で関係作りにも影響が出るわけなので、気を配らなければいけない。
しかし、相手の年齢などを尋ねなければ会話が始められないことを逆手に取って、緊張感のある会議の席などでも、お互いがクスッと笑うような瞬間を作ることもできるので、不便ばかりとも言えない。

 また、もうひとつ不便なのは、年上の人と仕事上ケンカをしなければいけないとき、呼称による心理的な影響で、どうしても自分の立場を弱く感じてしまうことだ。「妹」等の立場での縛りを受けてしまうように感じるのだ。実際、私は一つ年上で役職も自分より上の社内の女性とやり合わなければいけない状況が長く続いたのだが、火が付いたようにまくし立てる彼女を相手にして、なかなか自分の主張を明確にできなかった。社長からは、「日本でぬくぬくと育ってきた女性が、ベトナム女性と対等にやり合うなんてしょせん無理だから、やめなさい。俺だってベトナム女性は怖いんだから間には入れないからね」と言われ、周囲からは「言葉の面で不利なのだからしょうがない」とも言われたが、私はやはり呼称の影響が大きかったように感じている。きちんとした話し合いに持って行くのに、随分工夫が必要だった。 しかしこれも、相手との関係を根本的には崩さずに議論をしていくことができるという点で、案外よい「縛り」なのかな、と、最近は前向きにとらえるようにしている。
呼称によって、いきなり相手との関係が家族になって行く。だから、「余計なお世話」なことも随分言われるし、面倒なことも多いが、その鬱陶しさが、ベトナム語の魅力のひとつかもしれない。

著者紹介

小尾晴(おび はる) 旧姓 大村
サイゴン証券株式会社 Director 兼 日本ビジネス開発部部長

小尾春氏

1973年石川県生まれ。
津田塾大学学芸学部国際関係学科卒業、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。大学院在学中にハノイ国家大学に留学。
農村開発調査コンサルタントとしてJICAやJBICの案件に参加後、日本アジア投資株式会社に勤務、ホーチミン市に赴任。
2007年よりベトナム最大の証券会社であるサイゴン証券株式会社に当時唯一の外国人スタッフとして勤務、日系顧客を担当。
現在は退職し日本に帰国、通訳として活動中。

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