聖人と崇められる見習い教員【渡邊崇之@台湾】

台中の北西部に大甲という街がある。
その郊外に標高236メートルの鐵砧山がそびえる。 山頂から西方を望むと台湾海峡が目に飛び込んでくるのが印象的だ。
標高は勿論のこと、山腹の傾斜、樹木の茂み、山頂から望む海峡の景色、どことなく 旅順の203高地を彷彿とさせる。

ここは鄭成功が北伐で駐屯した時、剣を山に突き刺したところ甘美な泉が沸き起こったという 伝説の地として有名だ。
5メートルを超える鄭成功像を見に多くの観光客が訪れる。
しかし山腹の南側にある墓地に、ある日本人の慰霊碑があることを知る人は少ない。

大甲の住民から聖人と敬愛された志賀哲太郎、その人の墓と共にこの慰霊碑はある。
志賀は公学校(台湾人子弟が通う小学校)の一介の見習い教員(当時は「代用教員」といった) に過ぎなかった。
にも関わらず、なぜ長きに渡って台湾の人々に慕われて来たのか。
そんな思いを胸に、山腹の道無き草むらをかき分け、慰霊碑に辿り着いた。

志賀が大甲に赴任してきたのは1899年。
日本による台湾領有4年目のことだ。
当時は領台直後ということもあり、公学校とはいってもそれまで孔子・朱子を祀っていた文昌廟を 改造した程度のものであった。
住民の生活は不安定で、教育に対する父兄の理解も得られず、 就学率はなかなか上昇しない状況であった。
志賀は毎週日曜日に手弁当で就学適齢期の家を一軒一軒訪ね回り、根気良く教育の尊さを 説いて回った。

ただ言い聞かせるだけでなく、文房具の無い者には自ら買い与え、病気の者には食べ物や絵本を持って 慰問し、学費の払えない者には自ら立替えてでも学校に通わせるなど、身銭を切った具体的な支援も惜しまなかった。

また、道で住民とすれ違うと、必ず立ち止まってお辞儀を欠かさなかった。
当時そのような礼節習慣の無かった住民は驚き、尊敬のまなざしを向けたという。

時間厳守の概念が薄かった当時において、志賀は生涯無遅刻無欠席で自ら時間厳守を徹底した。
学校に鐘の設置を提言し、生徒には時間を厳しく遵守させた。
そして、その習慣は次第に住民にも定着して行った。

こうした志賀の実践躬行する姿勢に父兄達も尊敬をまなざしを向けるようになり、 就学率も向上して行った。
後に大甲は台中県下第一の就学率となり、進学率も 抜群で、後に台湾の各界を支える多くの人材を輩出することとなる。

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志賀の風貌には威厳があり、当初生徒達はその雰囲気に呑まれ、恐れ慄いていたが、 接するとすぐにその実直で温厚な性格が分かり、打ち解けて行った。
しかし、遅刻など時間を守らない生徒には厳しく接した。
志賀の教育方針は「慈悲」「倹約」「でしゃばらない」というもので、徳育を最優先 させた。

志賀は1865年熊本県上益城郡津森村に生まれた。この地は教育熱心な土壌だったようで、 志賀も幼少より読み・書き・そろばんの手ほどきを受け、 18才で四書五経、陽明学、仏書、英書も師について学んでいる。
22才の時、上京し東京法律学校で学んだが、父の死より25才で帰郷。
紫溟会に入って国権党員となり、九州日々新聞の記者として政治活動に挺身した。
しかし、当時の政治闘争に失望し、29歳で政界から離れ、一時地元の教師なども勤めたが、 日本の台湾領有を機に新天地での教育に希望を抱き、31歳で渡台した。
3年後に大甲に赴任し、26年間一貫して大甲での教育に従事している。

志賀の地道な努力により大甲から数々の人材が輩出されるという功績。
反面、大正に入り民族運動機運の高まりを受けた教え子達が次々と民族運動に身を投じて行く危険性。
総督府はその功罪両面を持ち影響力の大き過ぎる一介の代用教員を正式教員へと昇進させ、 本格的に官吏として取り込もうとした。
しかし、志賀は権力と自己保身の象徴に見える官服を着て、転勤を繰り返す 正式教員の生活を嫌って、昇進の誘いを断り続け、一代用教員を貫き、常に住民と共に寄り添ったという。

総督府の強大な権力を背景にした官吏による圧迫は住民を度々困惑に陥れた。 志賀は過去に政治活動をしていた時の人脈から、総督府にも知己が少なくなかった。
その為、住民に変わって陳情に奔走することも多かった。
そんな異色の経歴を持つ代用教員の存在を、日本人官吏が快く思うはずが無い。
常に厄介者扱いをされ、様々な嫌がらせも受けたようだ。それでも志賀は己の信念を頑として貫いた。

しかし、一代用教員とはいえ官の禄を食む者には変わりない。
内地から来た日本人官吏としての立場、台湾人の民権、民族運動の狭間での葛藤は 時代の流れと共に深まって行くことになる。

そして、遂に公学校の教師からも熱心な民族運動活動家が出現することになり、苦悩の末、 志賀はとうとう自決の道を選ぶ。

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1924年12月29日、真冬の池に紋付き袴姿で15キロにもおよぶ 大石をくくりつけて入水自決をしたのであった。

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桑野豊助氏著書の「台湾大甲の聖人志賀哲太郎伝」には下記のような記述がある。

「官吏は凡(すべ)て自己保身、官服に身を固めて空威張りするばかりで、台湾人の中に融け込もうとの意欲は一かけらも有しない。
先生の行動は常に台湾人の味方であり温かった。
台湾人に対しても日本人と同一として自主独立の精神を傷つけず、良心の命ずるまま少しも恐れることなく教えていた。
ひたすら台湾人子弟の味方として終始した。台湾人の味方となることは上司や他の教師から排斥されるか、 下手をすれば警察から引張られる危険があった。
しかし先生は身を賭して台湾人の味方となられたものでこのことが皇化の実を挙ぐる日本教師の義務だと信じられたようである。
教え子の多くと公学校教師中にも民族運動の熱心な挺身者が出るにおよんでついに自決の挙にでられたもののようである」

公学校の運動場で行われた葬儀には1キロを超える長い行列ができ、出棺の際に通る道の両脇には 住民が志賀への哀悼の意を表して供えた品々が溢れ返り、途切れることが無かったという。

1926年、教え子達によって墓碑が建てられ裏面には墓碑銘が刻まれてた。死因は敢えて「過労死」と記された。

そして、時代は戦後へと移る。
1958年、日本政府と協議の下、中華民国政府は日本人墓地を一か所に終結させることした。
しかし、志賀の教え子達による強烈な反対に遭い、結局志賀の墓だけは移転を免れた。
更に1966年には志賀先生生誕100周年祭が墓前で挙行された。

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現在の慰霊碑はこの時に建立されたものだ。
碑には「志賀先生之碑」と刻まれている。
この碑文はなんと当時の政権で 行政院長(首相)まで務めた孫科(孫文の第二子)による揮毫だ。

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これまで本コラムを読んで頂いている読者なら、国民党政権の対応に違和感を感じられても 当然だろう。この時代に、国民党政権の方針に堂々と抗ったり、日本人を堂々と祀ったりすること など到底できる時代では無かったにも関わらず、それが易々と実現してしまっているのだ。
更には当時の政権にいた中枢人物による揮毫までなされているのである。
その疑問は、当時の台湾の新聞が志賀を反軍国主義者、抗日闘争の英雄として扱っている ことで、一定の理解を得ることができる。

しかし、大甲の住民はその時代時代の政権から着色された志賀の評価に翻弄されること無く、 ただひたすら志賀の遺徳を偲び、手厚く葬った。
慰霊碑の建立後、山腹で地滑りが起き、墓や慰霊碑が埋もれてしまったことがあった。
その後、教え子達はそれらを守るかのように、次々と山腹の上方に自らの墓を建てた。
現在は慰霊碑の上方はコンクリートで固められており、山崩れなどは起きても頑丈に 防護されているかのように守られている。
実際に上方の墓碑を見ると、自身の生誕日を明治の元号で記していることの多い事に気づく。
きっと、その時代に志賀に師事できたことを誇らしく思いながら眠っているのだろう。

志賀の死後、既に88年が経過している。
さすがに教え子が存命の確率は限りなくゼロに近い。
どの故事も時の流れには抗えない。故人から直接影響を受けた世代が過ぎ去ると、 急速にその故事も色あせてしまうものだ。
慰霊碑に辿り着くまでの生い茂る草むらは暫く人が通っていないことを物語っている。
このまま時代と共にこの故事も葬り去られてゆく運命にあるのか。

後世である我々は、時の政権による評価の変遷、台湾人、日本人という民族の違いを乗り越えて、 志賀哲太郎の生き方を再検証し、語り継ぐ使命があるのではないだろうか。

著者紹介

渡邊 崇之:亜州威凌克集団 代表

渡邊崇之

1972年生まれ。中央大学卒。
学生時代に、東京都主催の青少年洋上セミナー訪中団、旧総務庁主催の世界青年の船、 青年韓国派遣団へ参加。バックパッカーとしても世界約50カ国を歩き回る。
特に中国・韓国へは数を多く足を運び、北京での留学や釜山での日本語教師生活の傍ら、旅行・貿易・小売業を手掛ける。
1996年、日本の一部上場経営コンサルティング会社に入社。 数々の支援先フランチャイズ本部の店舗ビジネス立上や上場支援に携わる。
2004年、アジア担当役員として「台湾経由中国戦略」を提唱し、実際に台湾・香港・中国に子会社を創設する。その後台湾に移住。
2010年、会社の戦略変更により、同社を退社してアジア各社をMBO。自ら事業を継承することとなる。
現在は在アジア日系企業の経営支援、及び日本企業のアジア進出支援コンサルティングを手掛ける一方で、アジア各地で実際に複数業態の店舗ビジネスを展開している。
多くの中国・韓国青年達と交流した経験からアジア近代史への問題意識が強く、帰国後もその研究を続ける。
台湾移住後は、主に台湾と日本の歴史的関わりを研究。特に台湾の日本語世代との交流が深い。

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