飛虎将軍廟の「君が代」を巡る思い出【渡邊崇之@台湾】

昭和19年(1944年)10月12日の台湾沖航空戦で旧型零戦で敵機グラマンに体当たりして戦死した杉浦茂峰少尉を祀る廟がある。
台南郊外にある「鎮安堂 飛虎将軍廟」だ。

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8年前、ゴールデンウィークに重なった台湾南部出張時の余暇を利用し、部下を伴って八田與一の慰霊祭に参加した。
翌日は、飛虎将軍廟で日の出と共に村民たちが「君が代」を斉唱するという現場をどうしてもこの目で見ておきたかった。
そこで日の出時間を調べ、ホテルを5時前には出発することにした。
部下には4時半の起床を頼んでおいた。
ところが、仕事だけでなく連日日本の神様巡りの強行軍に引っ張り廻され、かなり緊張していた部下は緊張のしすぎでついうっかりしたのか、ご丁寧にも現地時刻より一時間早い日本時間で起こしに来た。
ただでさえ少ない睡眠時間が更に一時間削られ、起こしに来てくれた感謝も横に筆者は朝からご機嫌斜め。
おまけにその日の台南は日の出前からバケツをひっくり返したようなどしゃ降り状態。
これから神様を拝みに行く心境とは程遠かったが、部下は隣席で既に手を合わせて神頼み状態だった。

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タクシーの中での部下の神頼みが功を奏したのか、廟に近づくに連れ次第に雨も止み、到着した時にはすっきりと日の出直前の晴れ間が差し込んでいた。
廟の前にていつ始まるのか暫く様子を窺うが、村人たちが集まって来る雰囲気は一向に無い。
不思議に思い廟守・曹芳氏に尋ねると、「おう君が代か!そんなものいつでも流してやるぞ。」とすぐさまCDを取り出して何遍も何遍も繰り返し流してくれた。
「いやいやそうではなく、日の出と共に『君が代』斉唱と伺ったんですが。」と問い直して見ると、以前はやっていたが、
今は日の出や日の入りにこだわらず特に日本からの来客時には「君が代」あり、「海ゆかば」あり、その他の軍歌ありで臨機応変にやっているとのこと。
その日もあらゆる軍歌を延々と大音量でがんがんに流してくれた。
我々の参拝も一通り終了し、軍歌もそろそろ2周目にさしかかる頃、曹芳氏が「君達、朝飯まだだろう?」 と言って近くの朝食屋さんですっかりご馳走になってしまった。
いくつかのハプニングから始まった早起きの憂鬱も、このゆる~い台湾経験で瞬く間に温かさとのどかさへと転じて行った。
飛虎将軍から「あまり急かずに、もっとゆる~く、穏やかに生きてごらん。」諭されるような感覚で廟を後にした。

この飛虎将軍廟の故事を毎年台湾側のアテンドとしてお手伝いしている産経新聞主催「日台青少年文化交流スカラーシップ」の企画責任者に話したところ、

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是非学生たちの台湾視察の際に組み込みたいとのことで、八田與一の烏山頭ダム見学と共に立ち寄ることになった学生たちに異国の地で堂々と日の丸がはためき、君が代が大音量で流れるところを体感してもらうのはまたとない経験であろう。

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廟の方とも事前に打ち合わせを行い、学生訪問と同時に「君が代」と「海ゆかば」を流してもらうことの確認も取った。
そして、いざ当日訪れて見るとなんとまたもや「君が代」が流れて来ないのだ。
どうしたものかと曹芳氏が懸命になって機器を操作するが、他の軍歌は流れるものの一向に「君が代」だけは流れない。
原因はCDプレーヤーとCDがかなり半雨ざらしの状態で繰り返し繰り返し大音量で使われる為、特にCDの損傷が激しくなっていたのだ。
結局のところ学生たちに「君が代」を聞かせることはできなかった。

その翌週に日本に一時帰国することになっていた筆者は新品の購入を申し出た。
そして、折角ならば直接届けようと再び台南旅行を企画した。
それを聞きつけた当時の産経新聞台北支局長の 長谷川周人氏が同行を申し出てくれたので一緒に行くことにした。
その時のことを長谷川氏が記事にしてくれたのが下記の文章だ。

2007年5月11日 台湾有情 廟に響く君が代

台湾南部の台南の郊外に、終戦前年の空中戦で米軍機に撃沈された日本海軍の零戦パイロット、杉浦茂峰少尉を祭る廟がある。
「鎮安堂 飛虎将軍廟」。

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杉浦少尉は、集落への墜落を避けようと機体を引き起こして、間一髪でその惨事を回避したものの、自身は機銃掃射を受けて戦死した。  
勇気ある行動に感動した地元の有志が、「少尉の霊を慰めよう」と、1971年に小さなほこらを建立。
「商売は繁盛。宝くじも当たる」といった「霊験」も広まり、ほこらは崇拝の対象となった。
日の丸を掲げている廟内には、少尉の「神像」が遺族から贈られた遺影とともに祭られ、管理担当の曹芳さん(76)によれば、毎朝5時、村人が君が代を斉唱する。  
ところが、この君が代のCDが今年初め、連日の酷使に耐えきれず、不調になってしまった。
「(年間1000人を超す)日本人参拝者の訪問時にも君が代は欠かせない」から、無理もない。  
これを知った台北在住の日本人駐在員、渡辺崇之氏(34)が先月、廟を訪れ、「日本人の勇気に手を合わせる台湾の人々に感動 した。
日本人として感謝したい」と新品を寄贈した。実はCDプレーヤーも寿命に近づいている。
曹さんはしかし、「杉浦少尉は命をかけ村を守った。今度はわれわれが神となった少尉を守る」と話している。(長谷川周人)

その後、この記事に感動した匿名の元自衛官の方がCDプレーヤーの寄贈を申し出てくれたそうだ。

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何度と予定通りに響き渡らなかった「君が代」が新たなる絆を生みバトンリレーとなって新たな「君が代」を生み出している。
今日も台南の空に「君が代」は響いているだろうか。そろそろまたふらりと台南まで聞きに行ってみようか。

※飛虎将軍こと、杉浦茂峰少尉が神に至るまでの詳細については、廟発行のパンフレットに詳述されているので、下記に日本語版を記します。
(明らかな誤字以外は原文のまま掲載しています。)};

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台南市の北西五キロの郊外に、早くから日本に名が伝われた「鎮安堂・飛虎将軍廟」がある。
祭られているのは、太平洋戦争中台南上空の空中戦で、壮絶な戦死を遂げた日本海軍飛行少尉「杉浦茂峰」(当時兵曹長)なのである。
どうして日本軍人が神として祀られ、「飛虎将軍」と尊称されているのか。
その「秘話」は。

話は一九四四年十月十二日に遡る。
太平洋戦争も末期近く、アメリカ軍は、フィリピン攻略戦の前哨戦として、台湾各地に航空決戦を挑んできた。
その火蓋が切られたのはこの日であった。
午前七時十九分米軍台南来襲、日本零戦上昇激撃、二十分には戦闘開始。
日軍は勇戦に努めたが、数を頼むアメリカ機群に衆寡敵せず、一機又一機と撃墜されていった。
中には体当たりを敢行したものもあった。
当時この空中戦の目撃者の話に依れば、一機の零戦も敢闘よく敵を制したが、いつの間にか無念にも敵弾を受けて尾翼より発火し、爆発が寸時に迫る危機に瀕した。
零戦は部落目がけて急降下の最中、何気なく地面をみた途端、何と下は丁度「海尾寮」という大部落。
はっと身も凍る様な戦慄に襲われた。

今飛び降りたら自分は助かるかもしれない。
けれども何百戸という家屋は焼かれるだろう竹や木と土で造られた家屋は,一旦火が着くとすぐに焼かれるだろうし
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こう判断した飛行士は、すぐ機首を揚げて、上昇の姿勢に移った。
突然上昇すると、部落の外郭の東がわ(同安路一帯 当時は畑と養殖場)に向かって飛び去った。
飛行機は空中で爆発した。
パイロットは落下傘で飛び降りたが、不幸ながらグラマンの機銃掃射を浴びて、落下傘は破れ、飛行士は高空から早い速度で地面に叩きこまれ、仰向けになって畑の中(飛虎将軍廟の付近)に落ちて戦死した。
軍靴には「杉浦」と書かれていた。
其の後、元日本第二〇一海軍航空隊分隊長、森山敏夫大尉の協力に依り、「杉浦茂峰」と判明した。

翌年、1945年、戦争は終わり、何年か経って、部落のあちこちで、不思議な夢を見たという噂が広まった。
広い帽子と服を着た日本の若い 海軍士官が枕元に立っている夢を見たという者が、皆に話たら、同じ夢を見たというものが数名名乗りでた。
数年前の記憶を辿り、1994年10月12日の空中戦を目撃した人々が、当日日本機一機が尾翼より発火し、部落目がけて急降下の最中に、急に機首を上げて、部落外れの東に向けて飛び去ったと、当日の壮烈な状況を皆に話し聞かせた。
海尾朝皇宮の祭り神保生大帝にお尋ねしたら、当時の戦死者の亡霊だと言う。

部落の有志者が集まり、その海軍士官が部落を戦火から救う為に、自分の身命を犠牲にした事が判明した。
部落の恩人に感謝の念を捧げる 方法を討論した。
会議は終に台湾人が謝恩の念を捧げる最高な表現である、祠を建てて、永久に海軍飛行少尉杉浦茂峰の恩徳を顕彰することを衆議一致で決議した。
1971年、本格的に祠を建設した。

祠は小さい乍らも(敷地は四坪程)部落の人々の尊崇を集め、毎日遠近から参詣者が多く、殊に日本からの参拝者団体が年中絶えない。

一九九三年、朝皇宮管理委員会の提案で、四坪の小さい祠を再建する事を衆議一致で決議した。
多くの信者の協力によって建直した廟は敷地五十坪、廟は台湾風のきらびやか造り、屋根は朱色の瓦、それを支える柱は大理石の豪華なもの。
壁には、大理石に彫った英雄史蹟の絵が嵌め込まれており、床はイタリヤ産の大理石で、いつも綺麗に光っている。
これはすべて信者の奉献でした。
大理石の柱には詩が刻まれている。
この詩を見ただけで建造者の思いが伝わってくる。
「正義」「護国」「英雄」「忠義」「大義」等は、すべて「飛虎将軍」に対する尊崇と壮烈な戦死を讃えている。

廟の正面には「鎮安堂・飛虎将軍」と書いた額が掲げられている。
「鎮安」とは、鎮邪安民の意で、「飛虎」は空を飛ぶの意味。
「将軍」は神として祭られる勇士の尊称。
正殿には本尊「杉浦茂峰」の神像、両脇には分尊二尊が奉安されているが、これは無名氏の像ではなく、信者に請われば、本尊の代理として、その家に迎奉されてお出ましになる。
廟守は朝夕二回、タバコを七本点火して神像と写真に捧げて、日本の国家「君が代」、午後「海ゆかば」を粛粛と歌うのである。
供卓の両脇には中華民国の国旗と日本の国旗が立ててある。

本堂が朝皇宮保生大帝(海尾部落の守り神)に同属した後、管理委員会は廟の整理及び台湾と日本の交流に致身し、日本学術文化各界が更に台湾の認識に力を入れてきた。

一、飛虎将軍廟年中行事
1、生誕記念日:陰暦十月十六日
2、御衛慰労日:陰暦六月二十日
3、お盆:陰暦七月十五日
4、御衛慰労日:陰暦十二月二十日

二、遺族連絡先
日本茨城県日立市大平四七五
実姉 杉浦 咲 さん

著者紹介

渡邊 崇之:亜州威凌克集団 代表

渡邊崇之

1972年生まれ。中央大学卒。
学生時代に、東京都主催の青少年洋上セミナー訪中団、旧総務庁主催の世界青年の船、 青年韓国派遣団へ参加。バックパッカーとしても世界約50カ国を歩き回る。
特に中国・韓国へは数を多く足を運び、北京での留学や釜山での日本語教師生活の傍ら、旅行・貿易・小売業を手掛ける。
1996年、日本の一部上場経営コンサルティング会社に入社。 数々の支援先フランチャイズ本部の店舗ビジネス立上や上場支援に携わる。
2004年、アジア担当役員として「台湾経由中国戦略」を提唱し、実際に台湾・香港・中国に子会社を創設する。その後台湾に移住。
2010年、会社の戦略変更により、同社を退社してアジア各社をMBO。自ら事業を継承することとなる。
現在は在アジア日系企業の経営支援、及び日本企業のアジア進出支援コンサルティングを手掛ける一方で、アジア各地で実際に複数業態の店舗ビジネスを展開している。
多くの中国・韓国青年達と交流した経験からアジア近代史への問題意識が強く、帰国後もその研究を続ける。
台湾移住後は、主に台湾と日本の歴史的関わりを研究。特に台湾の日本語世代との交流が深い。

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