生徒救出で殉難した日本人教師の義挙【渡邊崇之@台湾】

台中県新社郷に81年前に生徒救出の為殉職された
ある日本人の記念碑がひっそりとたたずんでいる。
教師の名は山岡栄(当時29歳)と言う。

日本人社会にはほとんど知られておらず、
また非常に判りにくい場所にあるため、
単独で訪れることが非常に困難な場所だ。
台北から車を走らせること2時間半。
新社市街でご老人のいそうな漢方薬局を見つけ場所を聞く。
残念ながら地元でも若い人たちにはあまり知られていないようだ。
教えられたとおりに新社市街を抜けたある商店街の小道へと入る。
ごみ置き場と廟が向かい合ったなんともアンバランスな場所で車道は終了。
そこからは徒歩で10分程度、ようやく渓谷の入り口に着く。更に渓谷をかき分けて
降りて行くこと数分、ようやく上から見下ろす形で記念碑の頭が見えてきた。
地元の方々のはからいだろうか、渓谷道には綺麗に石段が整備されており、
順調に降りる事ができたが、それでも運動靴を履いていないととても
降りて行くことは出来ない。それだけこの川が険しいことを物語っている。

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1905(昭和5)年5月9日東勢農林学校(現在の新社高中(高校))は
始業間もない大雨の為、生徒達を帰宅させる為、授業を打ち切ることにした。
当時、食水嵙溪の対岸に住む生徒達は中州づたいに竹で組まれた簡易な橋で
帰宅しなければならなかった。対岸に住む学生7人は父兄2人に付き添われて帰るが、
途中で急激に水位が上がり中洲に取り残されてしまう。

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赴任わずか4ヶ月の山岡先生はその報を受けるや否や、真っ先に飛び出し現場に駆けつけた。 事態が一刻を争うことを知り、同僚の到着を待たず川に飛び込んだ。 しかし、中州まで後一歩のところで、流石が頭部を襲いそのまま下流に流されてしまう。 生徒達はその後の救出で無事助かった。しかし、山岡先生はその後下流で遺体となって 発見された。

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翌年、台中州は「殉職山岡先生の碑」を建て、地元では毎年追悼式を行なった。
山岡先生の義挙は教科書にも載り生徒達の記憶に深く留められた。
9年忌には妻が内地から参加し、二本の竜柏の木を植樹した。
しかし、戦後国民党政権下では追悼式も無くなり、東勢農林学校の後身である
新社農業学校(現在の新社高中(高校))の学生が課外授業で見学に来るくらいであり、
人々の記憶からは徐々に失われていった。

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時代は流れ2003年。地元の人の呼びかけもあり戦後初めて山岡氏の遺族が参加して追悼式が
復活した。遺族は既に埋もれてしまった妻の竜柏の木の代わりに、二本の桜を改めて植樹した。
その後毎年追悼式が執り行われているようだ。
遺族の1人である甥、松井一夫氏によると、山岡先生の故郷愛媛にも記念碑が立っている。
地元団体の主催で「山岡杯写生大会」も開催されている。近隣小学校生徒が合同で、
記念碑を写生することで氏を追想し、献花するのだそうだ。

画像の説明

記念碑の側に作られた石段は更に川岸まで続いている。
きっと山岡先生はその川の中州で必死の救出作業を行なったのだろう。
思いを馳せるためにも是非川は見ておきたい。記念碑から石段づたいに歩くこと数分。
川が見えてきた。既にコンクリートで固められており、上流には立派な橋も見える。
しかし流れは大変急だ。毎日この川を竹の橋で渡って登校するだけでも大変な頃だった
であろう事が容易に想像が付く。更に大雨の急流の中、果敢にも飛び込んでいった山岡先生。
赴任4ヶ月。生徒達との心の絆もこれからだったはずだろう。
その使命感、勇敢さに身が震えた。
37年後の1943年、山岡先生の命日より一日早い5月8日はあの八田與一氏の命日である。
烏山頭ダムの追悼式は地元の水利会によって、毎年参列者が増え続けている。
近年は馬英九総統も参列するようになった。一方で、山岡先生の義挙はまだ
地元の一部の方々にしか知られていない。今年の5月8日は八田與一氏、
5月9日は山岡栄氏の追悼式に参加するというのはいかがだろうか?

著者紹介

渡邊 崇之:亜州威凌克集団 代表

渡邊崇之

1972年生まれ。中央大学卒。
学生時代に、東京都主催の青少年洋上セミナー訪中団、旧総務庁主催の世界青年の船、 青年韓国派遣団へ参加。バックパッカーとしても世界約50カ国を歩き回る。
特に中国・韓国へは数を多く足を運び、北京での留学や釜山での日本語教師生活の傍ら、旅行・貿易・小売業を手掛ける。
1996年、日本の一部上場経営コンサルティング会社に入社。 数々の支援先フランチャイズ本部の店舗ビジネス立上や上場支援に携わる。
2004年、アジア担当役員として「台湾経由中国戦略」を提唱し、実際に台湾・香港・中国に子会社を創設する。その後台湾に移住。
2010年、会社の戦略変更により、同社を退社してアジア各社をMBO。自ら事業を継承することとなる。
現在は在アジア日系企業の経営支援、及び日本企業のアジア進出支援コンサルティングを手掛ける一方で、アジア各地で実際に複数業態の店舗ビジネスを展開している。
多くの中国・韓国青年達と交流した経験からアジア近代史への問題意識が強く、帰国後もその研究を続ける。
台湾移住後は、主に台湾と日本の歴史的関わりを研究。特に台湾の日本語世代との交流が深い。

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