第7代台湾総督・明石元二郎氏の墓の鳥居【渡邊崇之@台湾】

台北の中心にある林森、康楽公園の一角に、大小二つの鳥居が立っている。
ガジュマルの木がそれらを守るかのように覆いかぶさっているのが印象的だ。
大きい方は日本統治時代の第7代台湾総督・陸軍大将の明石元ニ郎氏、小さい方は同氏の秘書官であった鎌田正威氏の墓の鳥居である。

watanabe21.jpg

明石氏は司馬遼太郎の「坂の上の雲」でもおなじみのように、日露戦争開戦前にロシア駐在武官として、反ロシア帝政への機密工作や秘密資金援助などの諜報活動を行なったことで有名だ。
しかし、氏の功績はそれだけではない。朝鮮半島の擁護を目的として治安を完遂し、日韓併合を実現に寄与。
1918年に台湾総督として赴任してからは、台北から高雄までの電力送電を実現した日月潭水力発電の開発、台湾人と日本人が同等の教育が受けられるようにした台湾新教育令の発布、海岸線鉄道の開設や司法改革など在任1年4ヶ月の間に数多くの功績を残し、多くの台湾人に慕われた。
しかし、在任中、帰省中の福岡にて病没する。「もし自分の身の上に万一のことがあったら、必ず台湾に葬るよう」という遺言どおり日本人墓地である「三板橋墓地」に埋葬された。
それが現在の林森、康楽公園である。台湾人による多額の寄付もあり、「軍人で皇族を除いて明石氏のような墓を持ったものはない」といわれるほど立派な墓だったようだ。
歴代の総督の中で今も台湾に眠る総督は明石氏ただ1人である。

戦後、この墓地はたちまち大陸から逃れてきた国民党の下級兵士の居住地と化し、バラックが乱立して50年近く放置されたままだった。
民進党の陳水扁氏(後の総統)の市長時代、1997年に補償金を支払うことなどで、ようやくバラックや市場が撤去され公園として再整備された。
明石氏の遺骸もこの時荼毘にふされ、現在は三芝郷のキリスト教共同墓地に埋葬されている。
その際、残った2つの大小鳥居は228公園の人目の付きにくい隅に移設され、長らく案内板も無いまま(一時期228記念公園の管理団体によって簡易案内板が設置されたがそれもすぐに撤去)、ひっそりと佇んでいた。
2年前まで筆者の勤めるオフィスはこの228公園にほど近い場所にあり、お気に入りの牛肉麺を食べた帰りに良く立ち寄って眺めていた。
数分も眺めていると何か不思議と勇気をもらえる、そんな感覚を今も良く覚えている。

林森、康楽公園の裏には欣欣百貨店という老舗デパートがありその中に映画館が入っている。
現在の筆者のオフィスからは程近い映画館の為、退勤後にたまにふらりと立ち寄ることがある。
2010年11月、映画を見終えた後、ふと視界に見覚えのある鳥居が目に飛び込んできた。
十数年も228公園に移設されていた鳥居が元の場所に戻ってきているのである。
それまでのこの地には「明石元ニ郎総督の旧墓碑」という中、英、日文でかかれた簡単な説明のあるプレートがあるだけだった。
更に12月中旬に再び訪れて見ると立派な 案内板が中・日文で記されていた。
中国国民党の総統で市長であるこの時代に誰がどのような意図でこの移設に尽力されたのだろうか。
詳細な説明文を見る限り専門家も関わっていることは容易に理解できる。
公園の向かいのホテルで毎月開催される「台湾歌壇」(日本語世代の方々が自分達でつくった短歌を論評しあう会)に集まる日本語世代のお年寄りに聞いてみても、皆移設の事実自体が初耳だったようだ。
そうこうしているうちに、12月2日には東京新聞から、1月3日には朝日新聞から移設の経緯についての報道がなされた。

それらの記事によると、発案者は40年近くこの地に住む地元の里長(町内会長)の王金富氏(62)。「(明石氏が)福岡で死んでも台湾に戻ってきたと知って、感動した。
この地は日本人の宿泊するホテルや免税店も多く日本人が観光ついでに見学しやすい。
多くの日本人に見てもらえるのではないか。」この王氏の提案を受け、台北市議の陳玉梅氏が市政府に働きかけ、実現したとのこと。
陳氏は中国国民党員ながら日本留学経験のある知日派で、「明石さんは台湾を愛した。
その心を大事にしたい」と異論も噴出する中、移設実現に奔走されたようだ。

watanabe22.jpg

台湾人の市井の善意から始まり、途中で政治的な意図もいろいろ錯誤したのだろうが、結果的に鳥居が元の位置に戻され、今でもこうやって受け継がれて、大切に扱われているという事実に、一日本人として心から感謝したい。

新設された案内板には小さい方の鳥居は鎌田正威氏の墓の鳥居とある。
実は今回の移設の前まで、この鳥居は第3代総督・乃木希典氏の母親の墓の鳥居とされてきた。
筆者自身もこの案内板を見るまでそう思い込んでいた。当時の三板橋墓地には3つの鳥居があり、明石氏、乃木氏の母親、そして鎌田氏の墓用のものとされていた。
この小さい鳥居の裏にはかすかに昭和10年(1935年)と刻銘があり、その年代と照らし合わせると乃木氏の母親とは年代が合わず、残る鎌田氏のものと推測されたようである。
ちなみに乃木氏の母親が亡くなられたのは1896年のことである。

watanabe23.jpg

つい先日、愛日家の「老台北」として広く知られ、先ほど紹介した「台湾歌壇」の会長でもある蔡焜燦氏から「明石氏についてもっと学ぶように」と明石氏に関する本を送って頂いた。
蔡氏は明石氏のご遺骨を現在の三芝郷の墓地に移設した際に尽力されたお1人である。読み終えてから、再び鳥居を眺めに行くと、その横で案内版に目を通しているお年寄りがいる。
台湾人義勇兵としてインパール作戦に参加し、奇跡の生還を遂げた蕭錦文氏だった。
蕭氏も明石氏のご遺骨移設の際にご尽力されたお1人だ。
当時のご遺体を掘り起して荼毘にふした時のことを思い出されているようだった。
明石氏が筆者に新たなご縁を与えてくれているように感じられた。

今や台北市内で最も訪れやすい日本統治時代の遺跡となった大小2つの鳥居。
台湾在住の方、または近々台湾訪問予定がおありの方は是非気軽に訪れてみてはいかがだろうか。

著者紹介

渡邊 崇之:亜州威凌克集団 代表

渡邊崇之

1972年生まれ。中央大学卒。
学生時代に、東京都主催の青少年洋上セミナー訪中団、旧総務庁主催の世界青年の船、 青年韓国派遣団へ参加。バックパッカーとしても世界約50カ国を歩き回る。
特に中国・韓国へは数を多く足を運び、北京での留学や釜山での日本語教師生活の傍ら、旅行・貿易・小売業を手掛ける。
1996年、日本の一部上場経営コンサルティング会社に入社。 数々の支援先フランチャイズ本部の店舗ビジネス立上や上場支援に携わる。
2004年、アジア担当役員として「台湾経由中国戦略」を提唱し、実際に台湾・香港・中国に子会社を創設する。その後台湾に移住。
2010年、会社の戦略変更により、同社を退社してアジア各社をMBO。自ら事業を継承することとなる。
現在は在アジア日系企業の経営支援、及び日本企業のアジア進出支援コンサルティングを手掛ける一方で、アジア各地で実際に複数業態の店舗ビジネスを展開している。
多くの中国・韓国青年達と交流した経験からアジア近代史への問題意識が強く、帰国後もその研究を続ける。
台湾移住後は、主に台湾と日本の歴史的関わりを研究。特に台湾の日本語世代との交流が深い。

コメント

  • 明石元次郎の墓

    明石さんの壮絶な人世は、現代の若者が一番に求めているものであろうと思います。一度、参拝したいと思います。


  • Re: 明石元次郎の墓

    >>1
    ご覧いただき誠にありがとうございました。ぜひ台北にお越しくださいませ。


  • 明石総督

    私も台湾訪問時にこの鳥居を見ました。今までなかった所にこの鳥居があったので少々びっくりしました。日本の鳥居は本当に素晴らしいと思いました。


  • Re: 明石総督

    >>3
    遠藤様、ご覧頂き誠にありがとうございました。台湾にはいたるところに日本がかつて台湾と共有した歴史の足跡がございます。またこういった情報発信も引き続き行なっていきたいと思います。



認証コード2353

コメントは管理者の承認後に表示されます。