第12回 銘茶には物語(ストーリー)がある! ~名も無き挑戦者たち 『鉄観音』その3~【市島宋氏@台湾】

中国発祥の喫茶文化が英国を筆頭とした西欧諸国にまで広がり、茶が世界的商品として注目され始めた乾隆年間(1736年~1795年)、
茶の集積地であったアモイの港は大いに賑わい、高級茶の産地として名高い武夷山の茶農家達はその恩恵に浴していた。

一方、常に武夷山の後塵を拝し続けていた安渓の茶農家達は、それまでの低級茶イメージを払拭させるべく新商品『鉄観音』の開発に踏み出す。

安渓の茶農家達は、福建省北部に位置する武夷と比べ、アモイとの距離が近いという地理的メリットと、
もともと安渓の土地が茶の栽培に適しているという既存の資源を生かすために製茶技術の研究に心血を注ぐ。

結果、武夷山の高級茶に劣らない商品の開発に成功する。
これが鉄観音誕生の瞬間だった。※『泉州府志』(1763年)

そして、郷里の茶に商品としての確信を得た人々が、自ら国外市場に打って出たのである。
彼らこそ、まさしく『鉄観音王国』を築き上げることとなる『王』氏だった。
※「出典:Googlemap」

【王氏の登場】

安渓の西坪鎮は、福建省最大の茶の産地である。
王氏の故郷である堯陽郷は、その西坪鎮に位置しており、現代でも約1万人強と言われる人口の殆どが茶産業に従事し、98%以上の人々が『王』姓と言うから驚きである。

この安渓における鉄観音生産の重要拠点であった堯陽郷出身者が、前記した鉄観音の誕生前後に早くも国外で茶の商売を始めていることは非常に興味深い。
これはまさに新商品『鉄観音』に相当な自信を持っていたことを意味していると同時に、新しい流通経路を確立するための挑戦だったと推測する。

表1)※『鐵觀音與王士譲』より、乾隆年間のものを抜粋
年代 人物 移住先 屋号
乾隆年間(不明) 王冬 ベトナム 王冬記
乾隆25年(1760年) 王苑 タイ 仕源茶行
乾隆25年(1760年) 王由 台湾 (不明)
では、彼らが目指したものは何であったのか?結論から言うと、現代の生産者直売に近いものであっただろう。
しかも、その物流から販売までを可能な限り一族で行うことにより、茶から上がる利益を最大限に享受できるシステムの確立を目指していたのではないかと推測する。

例えば、安渓で土地を相続した長男が鉄観音を作り、弟が販売する。
または安渓に留まっても食い扶持を得るのが難しいその他の弟達が、国外へ鉄観音を販売することで活路を見出したのかもしれない。
彼らの間を物流で結んだ親族も存在しただろう。
まさに大規模なファミリー・ビジネスである。

鉄観音の開発に成功した安渓の茶農家達は、ライバルである武夷山と比べてアモイに近い地理的メリットを活用して既存の流通網でも強力な売込みを行ったはずだ。
しかし、それだけで満足することなく、ましてや国外に独自の販売ルートを開拓しようとしたのには幾つかの要因があるように思える。

先ず、これは茶農家全般に言えることだが、茶という農産品は穀物等と違い現金化しない限り一家を養うことができない。
自給自足が不可能な分、当時から他の農家より経済感覚が研ぎ澄まされていたことだろう。

だからこそ、彼らは外部の中間業者を介さずに自分達だけで一貫して販売まで行うことのメリットを熟知していたのだ。
ましてや今まで散々に買い叩かれてきた彼らでもあるのだから。

そして決定的な要因は、アモイから100km圏内という地理的環境である。
これは茶の運送上のメリットだけには止まらないのだ。

例え鉄観音の開発に成功して茶園からの収入が増加しても、それ以前ならば尚更に安渓からアモイへの出稼ぎは多かったはずであり、
船員として海を渡る者、新天地を切り開く者、もしくはその様子を見聞きした人々がこと有る毎に帰郷しては親族一同と情報を交換し合うのだ。

「アモイのイギリス商人から聞いたのだが、イギリスはアメリカにも高い税金をかけて茶を売り込んでいるらしい」

「それならば、直接アメリカ人に茶を売れば儲かるだろう」

「イギリスの目があるからアモイからは無理だ」

「台湾にはアメリカからの商船が多く訪れていたぞ」

「では、台湾からアメリカ商人へ茶を売ってみてはどうか?」

などという会話も交わされていたことだろう。

最先端の情報と、何よりも海に近かった安渓の人々が新天地を目指して国外へ出ることは、当時からそれほど不自然なことでは無かったに違いない。
実際、同じ福建省にありながら内陸部に在る武夷山の人々が国外に移住したと言う話はあまり聞かないのである。

【より堅実な市場獲得のための絶妙な販売戦略】

また、彼らのユニークな点は、茶の大消費地に成長したイギリス初め西洋に目を向けるのではなく、むしろこの時期に経済力を増しつつあった華僑をメインターゲットにしたことである。
同じ中華圏の人々ならば、喫茶の文化を浸透させるまでも無く潜在的に需要があるのだから、国境を越えた『文化圏需要』への便乗とでも言えるかも知れない。

しかも、東南アジアで活躍している華僑の多くは半醗酵茶(烏龍茶)を嗜む習慣があると同時に、観音信仰の盛んな福建省や広東省出身者達であった。

現在の中華街を見ても分かるように、郷里の信仰や文化を大切にする彼らである。
そこに郷里の茶が届くのである。しかも名前は『鉄観音』。

由来を聞きけば、安渓の堯陽松林頭郷の信心深い善男が観音様から頂いた有り難い茶であるという。
茶水はまるで鼈甲のような美しい光沢に富み、郷里の春風を含んだような清らかな香りは、どれほどまでに彼らの心を癒したことか。
彼らにとって鉄観音は、慈愛に満ちた観音様の恵みそのものだったのである。

やがて鉄観音の香りは、遠く故郷を離れて生活する彼らの誇りとなり、日々の辛苦を励ます大切な生活必需品として愛飲されたであろうことは想像に難くない。
完璧なまでのネーミングの勝利であった。

鉄観音の成功を確信した王氏は、次々にタイ・ベトナム・アモイ・台湾へと店舗を増やし、まさに鉄観音王国とも呼べる一大商圏を形成する。
また、その他の安渓出身者も王氏に続くように国外進出を果たし、その中には台湾に鉄観音の苗木を移植して生産を始めた張氏も含まれるのである(現在の台北市文山区の木柵鉄観音)。

【鉄観音が繋いだ共生関係】

鉄観音が誕生したと推測される1760年には、東インド会社の輸入総額の約40%が中国茶で占めていたとも言われたほどで、
その後しばらくは空前絶後の黄金期を享受した中国の茶業界だったが、やがて苦難の時代を迎えることになる。

1839年にはイギリスがインドで独自に紅茶の生産を始め、次第に中国茶を駆逐しつつ、1841年にはアヘン戦争を仕掛けてくる。
おそらく、この時点で鉄観音のライバルであった武夷茶は大打撃を被ったはずだ。

しかし、華僑圏に市場を持つ鉄観音にとっては、それほどの打撃ではなかったと思われる。
おそらく予測していたのだ。
イギリスが遅かれ早かれ有望な世界的商材である茶の生産に乗り出すことも。
そして、結局は商売敵となる中国を徹底的に潰しにかかることも。
アモイでの出稼ぎを通じてイギリス商人たちと接してきた安渓の人々は、外国と交易することのリスクを感じていたのだろう。
その後に発生する日清戦争(1894年)でも、大きな被害は受けていない。
産地である安渓周辺の情勢が不安定となった日中戦争(1937~1945年)では、
一時的に茶園が荒廃したものの、この時期を挟んだ1920~1947年にかけては、
安渓出身者による東南アジア地域での店舗設立件数が過去最高の100件以上に達している。
驚くべき強靭さであり、それが戦後の東南アジア成長に便乗した華僑達に後押しされたものであることは言うまでも無い。

そしてこの頃には、かつて茶を持って国境を渡った安渓の人々も代を重ね、各地の華僑社会の一員なのである。
鉄観音は彼らの生活の一部となり愛され続け、消費されてゆく。
鉄観音を通じ市場と産地が見事に共生している証として、現在約100万人とも言われる安渓県の経済基盤の大半が茶産業に支えられているのだ。

鉄観音の故郷にある王氏の墓所では、今でも香が絶えることなく、先人達の偉業を讃え続けている。

おしまい

著者紹介

市島宋氏:台湾福茶代表

市島宋

1974年、宮崎県生まれ。宮崎産業経営大学卒。
スポーツインストラクターを経て、国内のエンジニア派遣会社に入社。主に台湾、韓国、アメリカで数多くの半導体・液晶パネル工場立ち上げに携わる。
2000年、偶然口にした一杯の烏龍茶に魅せられてお茶の世界へ転身、台湾省 茶業改良場の有機栽培研究員と共に約2年間現地の茶農家を渡り歩き茶業全般を 学び2003年に台湾福茶を立ち上げる。
現在も台湾を拠点に、馴染みの茶農家 達とお茶を作りながら活動している。

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