台湾茶の黎明期に福建省からやってきた茶樹たち【市島宋氏@台湾】

台湾茶の産地として長い歴史を持つ地域は、その殆どが台湾北部に分布しています。
理由としては、台湾北部が地理的に福建省に近かったことと、基隆や淡水河など水運の利便性に恵まれていたことがあげられるでしょう。

連雅堂氏の「台湾通史」によれば約200年前、清朝の嘉慶年間(1796年~1820年)柯朝氏が福建省の武夷山から台湾北部に茶の苗木を移植したのが台湾茶業の始まりと言われており、これに連なる台北市近郊の南港(ナンカン)や坪林(ピンリン)などは長い歴史を持つために『老茶區』と呼ばれることがあります。

これら『老茶區』の茶畑では、当時の開拓者達が持ち込んだ歴史的な品種が今でも大切に育てられていることがあります。
例えば重厚な味わいの「水仙」という品種は、愛好家ならば言わずと知れた福建省の北部に位置する武夷山周辺の銘茶であり、
柑橘系の香りが特徴の「佛手」という品種は、これも同じく福建省ながら南部の永春縣を原産とする銘茶なのです。

また、これらの中には台湾に移植された後に商品価値を大きく上昇させることとなる「白毛猴」も含まれていました。

時代が前後してしまいますが「白毛猴」のエピソードを紹介すると、台湾で製法が確立して商品化された高級烏龍茶に「東方美人茶」がありますが、
白毛猴を原料に使うことにより審美的にも極めて美しいお茶に仕上がることから20世紀初頭には最高値で取引されることとなります。
白毛猴から作られた東方美人茶50kgが入った木箱と商館の建屋がまるごと交換できたとも伝えられていますので、相当な価値があったと言えるでしょう。

これら福建省各地の銘茶がどのような理由で台湾に大集結することとなったのかを考えてみると、
開拓者たちが各々故郷の茶樹を持ち寄って台湾へ入植することにより自然発生的に銘茶の集合が発生したと考えるよりも、
当時から茶の商品価値を理解していた貿易商人たちの計画的な投資によると考えたほうが妥当かもしれません。

当時、泉州を中心に活躍していた貿易商人たちにとって重要な輸出品目であった茶の増産は大きな課題であったに違いなく、
新たな耕作地を求めるなかで白羽の矢が立ったのが茶の栽培に適した気候と天然の運河(淡水河系)に恵まれた台湾北部であったと考え
られます。

また、筆者が想像するに、入植に際しては福建省全土から商品価値の高い優良品種を選別した筈であり、
この辺りの作意こそ当時の茶の集積地であった泉州で市場の全体像を把握することができた貿易商人たちのミッションであったと考えるのです。

その後の経緯を紹介すると、入植者たちは見事に茶の繁殖に成功し1865年にはおよそ82トンの台湾産烏龍茶がアモイに輸出され好評を得ることとなり、
4年後の1869年にはイギリス人ジョン・ドー氏(Jhon・Doo)により「Formosa Tea」の商品名で北アメリカへ販売されて大きな利益を生みました。

その後もいくらかの烏龍茶が欧米に輸出されたと伝えられていますが、
1881年に福建省の茶商人である呉福源氏により包種茶(現在の文山包種茶や南港包種茶の原型)の製造方法が伝えられたことに伴い本格的な輸出も始まり1884年には約6、000トンもの烏龍茶が輸出されるに至ります。
この段階で台湾は原料生産から製造、輸出まで一貫して行える強力な生産基地に成長していることが見て取れるのです。

現在でも世界中で愛されている台湾茶。
その黎明期は、福建省各地から最高級の原材料と製造技術を集結した、まさにドリーム・チームによって切り開かれたことを老茶區の古株たちは静かに物語っています。

著者紹介

市島宋氏:台湾福茶代表

市島宋

1974年、宮崎県生まれ。宮崎産業経営大学卒。
スポーツインストラクターを経て、国内のエンジニア派遣会社に入社。主に台湾、韓国、アメリカで数多くの半導体・液晶パネル工場立ち上げに携わる。
2000年、偶然口にした一杯の烏龍茶に魅せられてお茶の世界へ転身、台湾省 茶業改良場の有機栽培研究員と共に約2年間現地の茶農家を渡り歩き茶業全般を 学び2003年に台湾福茶を立ち上げる。
現在も台湾を拠点に、馴染みの茶農家 達とお茶を作りながら活動している。

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